リフレクソロジーその原理と技法

 

 「リフレクソロジー」とは、厳密に言えば反射療法と訳されるくらいであるから、これから述べる原理及び技法から少し離れるかも知れない。しかし、こんにちの日本ではリフレクソロジーという言葉そのものが汎用化され、足を揉む、若しくは操作することによって得られる効果、効能を期待する足全般の手技についての総称になっている。

 

 要は足を操作することによって、様々な原理が働き、身体の治癒力が発現していくというメカニズムを述べたいわけである。リフレ概念から少し外れることをご承知置き願いたい。

 

 この拙論をまとめるにあたって、かつての「リフレクソロジーの五大原理」が下敷きになっている。HP上の「特別対談」の中でも触れられているが、かつてのものは小論文形式にまとめたものであった。これは一部の人達に配布しただけであって、HP上に公開はしていない。これを一度公開し、そこから論を進めていくという方法もあるが、すでに「対談-気のリフレクソロジー」に口語体で分かりやすくまとめられているので、あえて、小論形式の「五大原理」を公開する必要性はないと思う。諸兄には「対談」を参照して頂き、本論の不備を補って頂きたいと願う次第である。


技法

 

 リフレクソロジーの技法には大きく分けて二つのやり方がある。一つはフリクション(刺激系)、一つはコンプレッション(圧浸透系)であるが、コンプレッションは圧迫圧と誤解される可能性があるため、増永静人師に倣い「安定持続圧」or単に「持続圧」ということにしよう。


 この他にも、マッサージ的な方法論など、やり方は多数あるが、治療系ということに限って述べるので、ざっくり2つに分けても問題ないだろう。慰安系であれば、サムワォークに代表される技法も重要視されているということは充分理解している。しかし、原理からその技法がいかに働くかを解明しようとする本論では意味をなさない技法である。ただし、誤解して頂きたくないのは、治療系として意味をなさないというだけであって、慰安娯楽的には充分意味のあるということだ。手技の目的の一つには慰安的な要素もあるからである。しかし、ここでは触れないこととする。


原理

 

 五大原理の中で、たった一つの原理が人の身体を支配しているわけではなく、複数原理が働いている旨のことを述べた。今でもそのことについての考えは全く変っていない。それどころか、五大原理ではなく、現在は九大原理に拡大している。


 ともあれ、様々な原理が身体に働き、その原理に対応する技法があるということだ。今一度、復習の意味も込めてその原理について最初に列挙してみたい。


(1) 循環原理(老廃物除去)
(2) 反射原理(交感性反射)
(3) 全息胚原理(ホログラフィックパラダイム)
(4) 経絡原理(副交感性反射)
(5) 足心原理(頭蓋―仙骨系の調整)
(6) 三関節原理
(7) 筋・筋膜原理
(8) 損傷免疫増強原理
(9) 偽シグナル原理


 一昨年から四つも増えてしまった。増えた原理は、それぞれが他の原理に含めることができず、どうしても一つの項目を立てざるを得ないものなのである。

 

 それぞれについて、若干の説明を加え、対応技法について考察してみたい。


(1) 循環原理(老廃物除去)

 

 デトックス流行の今日、すでに20年以上も前に足裏に溜まる老廃物をこそげ落とし、正規の循環ルートに乗せることによって、体外に排出しようとした考えについては素直に敬服するより他ない。これを前面に打ち出したのが、故官有謀氏である。その著作はベストセラーになっていて現在も絶版になってはおらず、売れ続けているそうだ。その老廃物の正体は主に尿酸結晶他であるという。尿酸自体はそれが結晶になろうとなるまいと、人体にとっては無毒であるが、これも程度問題で、溜まりすぎると筋などに付着し筋力を弱め、身体全体の循環を悪くする。痛風の正体が、この尿酸であることは広く知られた事実であろう。尿酸値があまりにも高いと発痛物質となる。無毒ではあっても無害ではないのである。足は重力の関係でどうしても沈殿しやすい部位である。これらのことからも足裏の老廃物を除去し、循環を促進するということは、一定の体内環境を整えるという意味において理に適っていると思われる。


 さて、技法についてであるが、先に“こそげ落とす”という表現を使ったが、そのものズバリの表現であろう。まさにコスる、コスって、コスって、コスリまくる。これは歯医者が歯石を除去するのに似たイメージかと思う。そこまでいかなくとも、毎日の歯磨きが、ブラッシングという動きを主体とするのをイメージされればよく分かるのではないだろうか。つまりは、付着した取りづらい老廃物の除去を達成するための技法である。即ち、極端なフリクションを使うということだ。


 しかし、ある時、筆者は疑問を持った。明らかに策状物様な固まりがあって、これをフリクションで取り去ろうと施術しても取り切れないのである。クライアントは耐え難い痛みを訴える。しかしこの時、深く持続圧すると、その策状物は緩んで、かえって小さくなるのである。クライアントも耐え難い痛みではなく、むしろ心地良いイタ気持ちよさ、もしくは響く感覚を得る。

 

 取り去ろうと力んでコスッても効果がない場合もあるということだ。

 力まない単純な持続圧によって、溶け出していくという安定持続圧の威力を知った次第である。しかし、この安定持続圧の欠点は深い持続的な圧を要求されるということで、足に対しては実にかけづらいものである。恐らく、初心者では全く無理な技法であろう。初心者どころか相当なベテランであっても、様々な足に対して対応できる安定持続圧を駆使することは困難である。ある一定の訓練が必要かと思う所以である。

 

 ある深さに達しないと緩んでこないという性質のものである。そこで筆者は初学の者に対しては折衷的方法論で教えている。難しいのは深く入れることではなく、その深さを維持する、つまりその圧力で圧を安定させるということであるから、深く一端入れて、ゆっくりとフリクションをかけるという方法である。これなら、難しさも半減である。経験からいって、出来る者はたちまち出来るようになる。この折衷案は目的ではなく、あくまで便宜上のものであって、本来は安定持続圧とフリクションと完全に使い分けできるようになるのが望ましい。


 筆者もフリクションを全く使わないわけではなく、ケース・バイ・ケースで臨んでいる。人によっては安定持続圧のみで対応する場合もあるし、かなりフリクションを入れる場合もある。クライアントの状態によって変え、技法は固定していない。技法は手段であって目的ではないので、固定化する必要はない。必要がないというより、技法の固定化は進歩を阻む。思考停止に陥らせる最大の要因であろう。この部分に触れるのは他の原理も関係してくるので、後でまとめて記述してみたい。


(2) 反射原理(交感性反射)

 

 知覚神経(求心性神経)を通した刺激は、最終的には脊髄の求心性上行路に入っていく。この時、脊髄から交感神経が分岐枝として伸びていて、交差路のように求心性神経と交わる。この交わりの中で求心的刺激が交感神経に伝わり(スイッチされ)、一部の交感神経が興奮する。つまり、求心性の刺激が遠心性の刺激に変り、遠心的な機序を生み出すということになる。これを圧反射というのだが、足を刺激して内臓等、他の器官に刺激が及ぶということを説明しているものである。

 

 昔、このことを反射区の存在理由であるとした。つまり医学的説明として使っていたのである。しかし、足の特定の部分が特定の臓器に繋がるという証明は出来てないし、恐らく、これからも証明は無理であろう。したがって、反射区の根拠は別に求めるより他ない。これが次項で述べる全息胚原理になるのだが、そのとき、もう一度触れたい。

 

 さて、反射区の存在理由としては今の説明では根拠が薄すぎるが、実は、足の刺激によって交感反射が起きることは述べたように否定できない。足の刺激によって、交感神経を通して足以外の身体の諸器官に影響を与え得るのである。

 

 技法についてであるが、これについては既に結論が出ている。名古屋大学の元総長、故高木健太郎博士の研究によってである。博士は反射というものに非常に興味を持ち、それを自分の研究テーマにして、医学的実験を繰り返してくれた。その成果として「皮膚圧迫による自律神経への影響」という論文をものにしているわけだ。

 

これについては何度か触れているので、ごく簡単に説明したい。外的刺激が最も効率よく自律神経におよぶ刺激の仕方は「小さな面積で鋭く変化する」圧力であるということを立証した論文である。高木博士は自律神経とだけ述べて、それが交感性のものか、副交感性のものかは述べていない。しかし、少しでもこの仕事に携わる者には、これが交感性のものであると断言できるだろう。解剖神経学的にもそうならざるを得ないし、増永静人師もそう述べている。また、最初に反射チャートを作ったユナイシス・イングハム女史は、従来、反射ゾーンを押さえるだけだった技法を圧変化を頻繁に繰り返すという技法に変えることによって、より効果が高まると述べている。これが一つの見識となって、後のリフレクソロジー に影響を与えている。

 

 さて、「小さな面積で鋭く変化する圧力」を最も端的に具現している技法は、当然フリクションであろう。先に述べた官有謀氏は棒を使い、極端に鋭く、極端に変化する圧力を加えた。彼が理屈として、述べてきたことを知っていたかどうかは不明だが、期せずして、交感性の反射を強く引き起こしていたのである。


 思うに、彼の施術の成功例はこの機序に負うこと大ではなかったか。  

 老廃物を除去するだけでは、効果としてはあまりにも遅効性のものとなる。しかし、臨床例としてはかなり早く効果が現われる場合が多かった。

 また、施術後、一種の爽快感を伴い、「痛いけれど、その後の爽快感を考えると我慢できる」という人も結構いた。交感神経は一種の活力の神経であるから、故なきことではないだろう。ということで、この原理を応用する場合はフリクション技法が不可欠となるわけだ。


 しかし、この原理と技法が対応できるクライアントは東洋医学でいう「実証」タイプに限られる。病気も進むと「虚証」に変化していくが、「虚証」は安静、休息こそ求められ、無理やり交感緊張させると、それ自体、身体が耐えられない。本人の状態を全く無視してこの技法を行うと、治るどころか悪化する可能性さえあるのである。


 強いフリクション技法が一定の成果を挙げたということは否定できない。また、私もそれをやる場合もある。しかし、虚証、もしくは本当の病人、または三焦経という経絡が歪んでいる者には禁忌でさえあると言えよう。このような施術法が未だに支持されているのは、衰弱した病人に対する施術の機会があまりないからであると思う。しかし、陰では結構犠牲になっている者もいるはずだ。この技法を主体にする施術家に言いたいのは、もう少し、身体の勉強をして頂きたいということに尽きる。人の身体の状態というのはそれぞれ違うのである。ミソもクソも一緒にすると痛い目に遭う。施術家が痛い目に遭うだけならいいが、クライアントを痛い目に遭わせてどうするのか。

 

 痛い施術の元祖である呉若石氏も、最近ではそれほど強いフリクションを使わず、深く、ゆっくりした施術に変化してきてると聞く。前述した折衷型の施術スタイルである。

 

 個人的には強いフリクションを否定しない。ある種の人達には即効性があるし、この原理が一番よく適応する体質の持ち主もいるからである。繰り返しになるが、人によるのである。それを問診等でよく確かめ、また施術の感触で個別に判断していくべきだろう。それがプロなのであって、アマチュアとは別次元に存在する所以である。


(3) 全息胚原理(ホログラフィックパラダイム)

 

 この原理については実に多くの論議を呼んでいる。もともとは東洋医学での概念だが、最近の研究は東洋よりも西洋でのほうが盛んである。

 

 全体が部分に集約され、部分は全体を現す、ということがこの原理の骨子である。これにより反射区の存在が一応正当化されることになった。これを最初から説明すると長くなるので、「対談」における全息胚原理の項を参照して頂きたい。

 

 全息胚=反射区と考えていいのだが、全息胚は治療点ではなく、診断点として認知されてきたのである(東洋医学の歴史の中で)

 

 したがって、反射区に基づく施術が全息胚原理を通じて治癒機序になっているのか疑問が残る。診断点は必ずしも治療点にならない、という原則もある一方、診断即治療という原則もある。東洋医学のなんとも難しいところだ。

 

 さらにイングハム女史以降、ハンネ・マルカート、ドリーン・ベイリー、ヘディ・マザフレ等の各研究家がそれぞれ独自の反射チャートを発表しており、どれを参考していいのか分からない。微妙な部分で違うわけだ。微妙な部分と言ったが実際の施術ではそれが大きな違いになる。

 

 とりあえず、筆者は、ヘディ・マザフレが看護師であったという経歴から、ヘディ・マザフレ女史の発表した反射チャートを基本に作成している。看護師のほうが、医師よりも専門化が進んでなく、やる気さえあれば幅広く病人の例を参考にできるはずだから、その経歴を信頼したわけだ。それとて、完璧と呼べるものではなく、授業では、勝手に「これは一級反射区ね」とか「これは三級反射区だよ」とか言っている次第である。

 

 しかし、この全息胚原理に基づく反射区の最大の利点はクライアントに説明しやすいし、初学者にとっても、実に分かりやすく実技に入っていきやすいものだということ。仮に授業で「自分の好きなところを好きに揉んでいいよ」と言い放ったら、生徒さんは途方に暮れるに違いない。この反射区どおりに、このように施術していけば、曲りなりにも足全体を施術することになるわけで、足ならどこでも施術できるという目的を達成することができる。まずは施術できることがトップ・プライオリティだからである。身体に働きかける原理は全息胚原理だけではないので、足全体を満遍なく揉めるということが初学者にとっては重要なのである。

 

 さて、全息胚原理が仮に相当に身体に働きかけるとしよう。その場合、どのような技法が有効なのか。実は未だ結論を見ていない。経験からいうと、全息胚原理が働く場合は、かなりスピリチュアルなもので、施術家個人の確信やら思いやらが大きく関係するような気がする。恐らく、先に挙げた研究家達は、それぞれの確信によって反射区反応を引き出していたに違いない。思い込んだら命がけ・・・女性の特徴でもあるので、強い確信のもと全息胚(反射区)にアクセス出来たのであろう。勿論、違う原理も働いていたには違いないが。


 強い思いを伝える技法は、人によって違うのではないだろうか。個人的には、持続圧のほうが思念を集中しやすいのだが、これもむしろ、リズミックな圧変化のほうがそのリズムに乗せて思念を伝えることが出来るという人もいるだろう。気功家でも、じっと手をかざし微動だにせず、気を伝える者もいるし、小刻みに手を動かしバイブレーションのように気を伝える者もいる。これは個性なのだろうと思う。であるから結論は未だしというわけだ。というよりこの原理については結論など出ないのかもしれない。最もよく思念を集中でき、自分的に満足できる技法を選ぶより他ないのではないだろうか。個人的にそうだからといって人に押し付けるわけにもいかず、その人の個性に任せる部分もあっていいのだろうと最近思うようになった。色々試して見ることだ。


(4) 経絡原理(副交感反射)

 

 経絡(けいらく)原理というものを一括で副交感反射としてしまったら、異論が続出するだろう。勿論、私もそんな単純なものだとは思っていない。反射原理が交感性のものであることは、最早、論議の余地がない。それと対極にあるのが、経絡原理なのである。対極にあるわけだから「副交感反と便宜上サブタイトル化した。これからそれも含めて説明したい。

 

 経絡とは気血の通る道であって、それは分肉(ぶにく)の間を走行す、と言われてきたものである。ある種の生命エネルギーの通る大まかな道筋と言ったら分かりやすいのかも知れない。経絡とまとめて言うことが多いが、経絡とは「経脈(けいみゃく)」と「絡脈(らくみゃく)」を一緒にした言葉である。通常、古典経絡の経絡人形や経絡図では経脈だけが描かれていて絡脈は無視されている。実際、毛細血管のように張り巡らされているものであるから、描くのは不可能なのであろう。もう一つ別な言い方をすると、「絡脈」とは経脈間のバイパスのようなルートでもある。これは重要なことであるから是非覚えておいて頂きたい。


 さて、経絡には運行の順番がある。順番があるということは始まりがあるということだ。どの経絡が最初になるかというと、胎児が産道を通って初めて外気に触れ、そして人生で最初の呼吸をすることになる、オギャー!と、つまり肺経のルートが開通するのだ。肺経が最初になって、次に大腸経へ行く。ここで肺―大腸という有名な陰陽関係が成立するのである。さらに大腸経から胃経に行く。大腸経―胃経は同じ陽経なので陰陽関係は発生しないが、ルート的に直近であるので関係が深い。これを「三陰三陽経」でいうところの「陽明経」と一括してグループ化するわけだ。さらに胃経から脾経に流れる。ここでも陰陽関係が成立するので脾―胃という関係が成り立つ。脾経の次は心経である。脾―心は臓腑陰陽論でも三陰三陽論でもグループ化できないが、後に作られた五行説では関係が深い。火―土である。さらに心経から小腸経に行く。当然これは心―小腸という陰陽関係になる。そして小腸経から膀胱経へと行く。小腸―膀胱は「太陽経」である。さらに膀胱経から腎経へと。言わずと知れた腎―膀胱の陰陽関係だ。腎経から心包経へと流れる。これも後の五行では水―火として関連性が深いものである。心包経からは三焦経へである。心包―三焦という陰陽関係だ。三焦経から胆経へ。これも「少陽経」として一括される。そして最後、胆経から肝経へ行く。肝―胆の陰陽関係になる。このようにして、死ぬまで循環を繰り返すというのが経絡の基本的な考え方である。臓腑陰陽論も経絡の運行順と無関係で成り立っているものではないということが分かるであろう。そして、三陰三陽の陽経もまた運行的に直近で走行しているということが分かると思う。しかし、ここで疑問に思う方もいるだろう。三陰三陽の陰経はどうした?どんな運行関係がある?という疑問だ。例えば三陰三陽でいう「大陰経」は肺と脾がグループ化されているのだが、運行的には肺から大腸、大腸から胃、そしてようやく胃から脾に至る。このように隔たりがあるのである。何故、運行的な隔たりがあるにも関わらず、肺―脾は大陰経として一括されるグループなのか?

 

 実はこれが古典経絡で、足に六経、手に六経と省略された理由にもなるのだが、基本的に肺経と脾経は運行的には隔たりがあるが並んで走行しているのである。特に上肢は分かりやすく例外がない(体幹部、下肢は例外があるが)。手の太陰肺経のすぐ真隣を脾経が走行している。増永経絡で確認して頂ければと思う。ほとんど平行して走っているため、これを一線と考えてもいいくらいである。親指で押すと指の幅があるから、肺経を押しているつもりでも、脾経も合わせて押しているくらいなのである。さらに、大事なことであるから覚えて頂きたいと最初に述べた「絡脈」の存在がある。平行して走っている二経はバイパスが一番働きやすい。直隣だからである。こうして、肺―脾は太陰経というカテゴリーに入るわけだ。同じように心―腎も平行して走行しているので、「少陰経」と一括される。肝―心包もまた平行走行なので「厥陰経」として一括できるのである。逆に言うと、省略も可能なので、煩雑さを避けるため、同じ太陰経だから、「手の太陰肺経」、「足の太陰脾経」と分けてしまったことも理解できるわけだ。筆者が足証図を三陰三陽で表したことの意味を理解して頂ければ、幸甚である。

(ページの最後に参考として図を貼りつけてある) 

 

 さて、気血の通り道とは言っても現代人にはわかりづらい。そこで増永師は、経絡の本態を解剖学的にあえて言うならば、原形質流動による細胞間伝達であろうという仮説を立てた。増永師がこれを発表してしばらくしてから、中国で全く同じ研究結果が出されている。増永師が発表しても一顧だにされなかったものが、中国が発表した途端、凄い研究だと日本の東洋医学関係者がべた褒めしたそうである。そんなことは随分前に私が言っているだろう、と憤慨されている記述を読んで、実に日本的だと苦笑してしまった。しかし、ご本人は苦笑では済まないだろう。

 

 日本では正当に日本人の仕事を評価する伝統がない。増永師の仕事の評価が高いのは、日本よりも韓国、中国である。しかし、彼らは東洋医学の本家、本元であるという自負から、増永師の名を前面に出すことはないと思う。逆輸入されたものをありがたがって、いつのまにか中国式指圧とか韓国式指圧になって日本に定着するかもしれない。石原慎太郎氏あたりが知れば、激怒くらいはするかもしれぬが、日本の国民性だからしょうがない。かくして日本では英国式も中国式も足揉みのブランドになり得るが、日本式はブランドになりづらいのであった。

 

 余計な話はさて置き、足証図について少し触れたい。
 足証図では「太陰経(肺―脾)」をちょうど反射区で言えば胃の反射区と膵臓の反射区に被る形で設定している。脾は内臓的には消化器系、特に膵臓の働きを指すことが多いので、この辺は反射区療法から入った施術家なら納得しやすいのではないか。しかし、肺もまた太陰に属するわけで、この部位を肺に関連付けるのは抵抗があるとも思う。しかし、経絡機序が働きやすいのは、多少の故障を抱えた実証タイプの人ではなく、休息を必要とする病人なのである。若し、そのような人に対してこの部位を押さえてあげたなら、すぐに分かると思う。呼吸が楽になるのである。弱りきった病人がいて、呼吸器系の病を患っている人がいたら是非試してみて頂きたい。太陰肺経の反応があると確信できるはずである。次、そのすぐ下に「陽明経(大腸―胃)」が設定されている。反射区でいうと、横行結腸が重なるし膵臓の一部も重なる。というわけで反射区的な意味合いとも整合する。しかし、重ならない部分、反射区療法ではあまり意識しない部分―というのは、あまりシコリが発生しない部分であるからだが―その部分に非常に強い痛みを感じる人がいる。それも決して少なくない確率で。そのような質問も結構あるのだが、足証の意味を一から説明しなければならないので、適当にお茶を濁している。「まあ、痛いんだから、痛いんじゃないの」などと、いい加減な、答えになっていない答えを述べたりすることもあった。大変申し訳ない。これは陽明経の歪みとしか言えない反応の仕方なのである。陽明経の歪みだ、と言っても理解してくれるはずもないから、ここでまた、説明が必要になるわけだ。簡単にいうと、症状的には鼻詰まりなど、鼻に問題を抱えている場合もあるし、貧血、婦人科系の問題、のぼせて頭痛をよく訴えるという人もいる。腰から下に力が入らないとか、腕に力が入りづらい、若しくは腕を使い過ぎている・・・勿論、胃や大腸の関わる諸症状全般として出ている場合もある。まだ他にもあるが、陽明経の歪みというのは内臓のどこが悪いと特定できるものではない。これは経絡の歪みの特徴でもある。傾向性を表し、治療点を現すものだからである。いずれ、この陽明経の歪みのパターンを持つクライアントに出会うはずなので、その時、問診するなり注意深く観察することをお奨めする。


 さて、足の真ん中上部に「少陰」とある。少陰は腎と心(しん)である。腎についてはそもそも古典経絡では腎経上の足裏唯一のツボである「湧泉」があるし、反射区でも副腎や腎臓が設定されているので納得できるのではないか。しかし、心(しん)となると、意味が分からないだろう。心を心臓と見立てるなら、心臓をコントロールするホルモンが副腎から出ているので、そういう説明も成り立つのだが、心は決して心臓のみを指しているのではなく、心というくらいであるから、“こころ”の問題が現われる場合も多いのである。また胸椎の陥没を持つ者にも、ここでの異常を感じる場合がある。胸椎陥没からくる肩コリは、施術雑感でも述べているが、治しづらいものだ。その下、足心から踵のヘリの部分まで「太陽経(小腸―膀胱)」である。腰椎1番2番5番での障害、下腹部系の異常などが出る。細かい症状を上げればキリがないくらい多彩な問題を提起する部位である。仙骨も含まるので、仙骨異常も考慮に入れると病態がはっきりするだろう。外側上部の厥陰(心包―肝)は反射区とほぼ一致していて、馴染みやすい。心包は冠状動脈を含むし、肝は文字通り肝臓も含む概念だ。経絡的にはもっと広範囲な症状が出るが、ここでは省略する。その下、少陽(三焦―胆)は結構盲点である。反射区では三焦を特定していない。しかし、三焦主義(三焦重視派)という流派が東洋医学ではあるくらい、三焦の働きは重要である。三焦が表わす主な器官は人体の各膜を指すことが多い。上からいくと、脳の三膜、角膜、網膜、鼻粘膜、喉の粘膜、胃の粘膜、胸膜、腹膜・・・etc。膜の働きは我々が想像する以上に重要なものである。ただ、これを特定できない恨みがある。全身に分布しているものだからである。筋膜までいれると、それこそ身体全部ということになってしまう。よく問診、切診し、ここに異常がないか確認すべきであろう。子宮内膜症の人で、ここに異様なシコリを持っていた例があった。三焦の歪みは痛がるという特徴があるが、この人も例外ではなく、足全体が過敏に反応し、特に先述のシコリの部分は相当なものであったようだ。しかし、それほど酷く症状が進んでいたわけではなかったので、生理痛は数回の施術で緩和した。胆は関節の支配経絡の一つである。膝痛は脾経異常が多いが、その中でも膝の外側が痛むというタイプはこの部位を疑う必要がある。偶然にも膝の反射区の近くにある。

 

 経絡原理を最大活用するには、安定持続圧が一番である。フリクションでも経絡的機序は働くが、最大活用には至らない。細胞間伝達が経絡機序の一つなら尚更であろう。深い持続圧によって圧が浸透し次々と刺激が伝達されていく。タイムラグがあるわけだ。だから、経絡的な響きは、少し時間がかかって感じる。さらにこのような押し方は副交感神経を優位にさせる。反射原理と対極にあると言った所以である。経絡治療とは、身体を休息させ、自己治癒力、修復システムを回復させることであるから、副交感優位になるのも故なきことではない。交感反射が術後の爽快感を伴うのに対して、副交感反射は術後、ダルさ、眠さを感じる。これは身体のシステムなので仕方がないものだ。場合によってはムクミが出る場合もある。これらを含めて瞑眩反応というのだが、身体が元の正常な状態に戻ろうとする反応で、治療系ではよく認識しておかねばならない。


 病人とは身体が弱っている状態で、神経系全体もエネルギーを消費するような活動の仕方はしていない。これは回復するための準備期間なのである。ここで鞭打つように交感性の反射を人工的に起こすとどうなるか。安静が必要な病人に「運動しろ」と言っているようなものである。そこに、休息をさらに深める副交感が働く必要性があるのである。さらに言えば、経絡は高次神経系の代わりは出来ないが、生命維持の基本的な伝達を行い得る。または補助パワーみたいなものかもしれない。SF映画でよく出て来るシーンだが、宇宙船のメインエンジンが何らかの原因で働かなくなり、すかさずキャプテンが「補助エンジン点火!」とか何とか言って、窮地を脱する。このようなフェイル・セーフシステムとしての機能も経絡にはあるのである。経絡原理を働かそうとするとき、以上の点を考慮にいれ、使わねばならない。実際、本当に弱った病人がサロンにやってくるということは少ないと思う。だから、プロ養成コースで教える折衷型の施術方法で充分な場合も多いだろう。しかし、いつ身内が、友人が、知り合いがそういう状況に陥り、入院するとも限らないではないか。そのとき、もてる力を最大に発揮し役に立ちたいと思うのが人情であろう。それが出来ないくらいならこの仕事を続けている意味はないと思う。この仕事を生活の手段と割り切ってする人に対して、否定はしない。しかし10年やっても同じことしか出来ないなら軽蔑の対象でしかない。


(5) 足心原理(頭蓋―仙骨系の調整)

 

 足心は特別だ。アーユル・ヴェーダ(インド医学)ではタラフリダヤ・マルマというのだそうだ。仏足跡にも足心が描かれていて、なるほど随分と古代から重要視してきたんだな、と納得できる。この足心を経絡的に捉えると、督脈、任脈に相当するのはほぼ間違いないことだと思う。しかし、経絡的な捉え方ではなく、もっと別な捉え方も出来るのである。それがサブタイトルになっている「頭蓋―仙骨系の調整」というわけだ。頭蓋―仙骨系の重要性は何度かHP上で述べているので、繰り返さない。

 

 オステオパシーで発達したクラニアル・セイクラル・マニピュレーション(頭蓋仙骨療法)という療法があるのもご存知だろう。この療法の肝(きも)は微細なインパルスを検出するところにある。解剖学的には不動関節と呼ばれている頭蓋縫合部の微細な動きをキャッチし、それが正常か否かを判断する。正常であれば、脳膜の緊張を緩め、脳脊髄液の循環をさらに促して、施術は終了である(クラニアル・マニピュレーションの場合)。正常でなければ正常になるまで、各種技法を繰り返すこととなるわけだ。基本的なこのリズミックなインパルスが正常ではないということは、何をやっても本質的改善になり得ず、やがて病気になるということだから、東洋医学的には「本治」に属するものと言えよう。

 

 勿論、頭だけ、仙骨だけ、の治療だけでいいというわけはない。これらが正常であっても不調のときはあるし、苦しい体調のときもあるのである。ここでも、東洋医学の概念「標治」が生きてくるものである。本治と標治をいかにバランスよく配置し、施術を組み立てるかが、施術家の腕の見せ所ということなる。


 さて、筆者はクラニアル・リズミック・インパルスと同じものを足心で感じるのである。オステオパシーでいう一次呼吸が足心においても行われていると確信している。最初はそんなつもりもなかったのであるが、真人は踵をもって呼吸す・・・中国古典の記述は知っていたし、気の呼吸は「黄帝内経」に書かれていて、知っていた。後にオステオパシーでいうところの一次呼吸の概念を知って驚いたのであった。

 

 この辺も「対談」に記述されているので参考にしてほしいと思う。いずれにせよ、足心でのインパルスが、頭蓋よりも、仙骨よりも強く感じられるのを知って、本当に驚いたものである。荘子は中々大したものだ。「真人は踵で呼吸する」というのは本当のことなのである。


 であるならば、足を触る施術をする者はすべからく、足心での呼吸、つまり、プランター・リズミック・インパルス(プランターとは足底という意味)を感じ取り、それらを正常にする必要があるのではないか。

 

 それが本治につながり、期せずして、「本治」と「標治」のバランスを解決し得る方途ではないだろうか。


 大きなテーマに、取り組んできたものだ。誰も言わないことを信じ、積年の臨床を積み上げていく作業は厄介でもあり困難でもあったが、今なら、確信をもって言える段階にきていて、良かったと思う。足心においても一次呼吸、つまり、気の呼吸が行われているのである。では、この足心原理を利用すると、どのようなメリットがあるのだろうか。臨床上、はっきり確信できるのだが、足心での一次呼吸を促進させると、頭蓋のリズミック・インパルスが正常化してくるのである。もともと当院に来られる方は身体に悩みを抱えて来られる方が多いわけだから、頭蓋の動きが悪い。90パーセント近くにもなろうか。足心部の押圧を充分に行えば、若い方ならそれだけでも、頭蓋が動きだす。拘束がキツクて、中々動かない者に対しても、少なくとも、足心の操作を加えることによって、頭蓋は動きやすくなるのである。クラニアル・マニピュレーションという手技が格段にやりやすくなり、瞑眩反応も最低限に抑えられるのであった。


 頭蓋―仙骨―足心はまぎれもなく「本治」に属する方法論であると思う。勿論、本治のみでの施術では症状の軽減まで、時間がかかる場合も多いだろう。歪みが深くなれば身体各所の拘束が発生しているからだ。

 

 しかし、施術自体に「本治」の概念が入らなければ、単なる対症療法になる。如何に身体が楽になったところで、体質改善していないのであるから、その場の慰安娯楽的手技といえるのである。慰安的手技とは、圧が強いとか、弱いとかいう問題ではない。本質的か対症的かの問題なのである。足心原理は、足を操作することによる本質的な体質改善に寄与できる原理だと確信している。

 

 技法はやはり、安定持続圧になろう。この時、経絡原理も共に働くのでより効果的であると思う。折衷型フリクションでもよく効く場合もあるが、安定持続圧は自身の気の動きを感じられるメリットがあって、心理的効果も見逃せない。


 足裏は丈夫で安全であるから、初学者は無理して持続圧を行う必要はない。施術者自身の身体を守る必要もあるからである。無理なく行うようになるためにはそれなりの訓練が必要だ。中途半端で行うよりも、折衷型のフリクションでよく慣れてからほうが良いかもしれない。


(6) 三関節原理

 

 三関節とは足関節(足首)、膝関節、股関節のことである。これら三つの関節は互いに補正器官であって、例えば、足関節が拘束されているならば、膝関節でその分補正し、不都合が出ないように涙ぐましい協調を行っているというわけだ。逆に言うと、足関節が悪いと、膝に負担をかけるという言い方にもなる。これが昂じてしまうと、膝に症状が出てしまうか、さらに股関節にその補正負担を強いて、股関節がおかしくなる。勿論、股関節が先におかしくなって、膝、足首に影響を与える場合もあるし、膝がおかしくなって、足首、股関節に影響を与える場合もある。文字どおり三関節は互いに補正しあう間柄なのである。


 実はこの原理は筆者のオリジナルではない。すでにフルフォード博士がこの原理をいちはやく発見し治療に取り入れ、成果を挙げているものだ。しかし、理屈で知っているのと、臨床上で確信できるのとは違う。

 

 筆者はこの原理の正当性を何度も目の当たりにしてきた。
 三関節原理は、まぎれもなく身体の支配原理の一つであると確信している。

 

 筆者の臨床上の体験を交えて、もう少し述べるならば、この三関節のうち、一番症状が出やすいのは膝関節であろう。次に股関節。つまり足関節(足首)の症状というのは、余程、くじいてしまったということがない限り、直接的にでることは少ない。しかし、しかしである。人の足ばかりを長年診てきて言えるのは、足首の拘束者というのは非常に多いということである。ただ、それが症状として出づらいというだけだ。足首の運動閾の狭さは意外に自覚できない種類のもので、指摘して初めて、そう言えば・・・と気がつくこともあるし、指摘してさえ尚、ピンとこない者もいるくらいである。ことほど左様に足首の拘束は自覚しづらい。“この運動閾の狭さなら、膝にくるのも無理ないなぁ”と思うこと度々なのである。場合によっては股関節まできて、さらにそこから、腰にきている者もいる。そして、三関節の自覚症状があまりないというパターンさえある。いずれ出てくるのだが、その時点では自覚がないわけだ。もとを辿れば、足首の拘束から始まっている膝痛、股関節痛、腰痛者が少なからずいるのである。


 さて、ここから筆者のオリジナルなのだが、足関節を弛めるのに効果があるのは、足底内在筋へのアプローチである。つまり足裏。足裏を見ただけで、足関節の動きが悪いとすぐに分かるくらいである。足裏の、特に土踏まず系が前に飛び出しているかのような偏平足などは、触る必要もないくらい自明であろう(運動による足底筋の発達は別にして)。

 

 仮に、そこまでの偏平足でなくとも、各所にシコリがあって取りづらい者も、足関節の動きは悪い。

 

 思うに、リフレ(足揉み)が膝痛や腰痛によく効くのは、この三関節原理が期せずして働いたせいではなかろうか。膝の反射区が功を奏したというのはどうも違うような気がする。反射区“命”の施術家にはお叱りを受けるかもしれないが。

 

 足底内在筋群へのアプローチは、持続圧が良いと思う。そのほうが深層筋に達し、緩んでくる。その技法にプラスして特殊操作を加えると尚いいのだが、文章では技術を表現できないと何度も述べたところでもあるので、ここでも記載は省略させて頂く。足首回し程度では拘束のリリースはできないということだけは付記しておきたい。

 

 ともあれ、三関節原理は生きた原理である。若し、運動器系の症状を抱えている者がいたなら、試して見る価値はあるはずだ。


(7) 筋・筋膜原理

 

トリガー理論の拠り所になる原理ともいえる。また、ポジショナル・リリースでいうところのテンダーポイントも、やはり同じことを述べている。経絡治療家は、治療点と離れたところに症状が出る、ということは当たり前のこととして認識している。ここが経絡治療の優れたところでもあろう。西洋手技の世界でも、経絡理論とよく似た原理で対処しようする技法が近年発達してきた。しかし、経絡は英語でこそ、メルディアンと呼ばれていて、固有名詞を付けられているくらいだが、その実体は実に把握しづらいものと言える。東洋人でさえ、分かりづらいのだから、西洋人には尚更であろう。

 

 トリガー理論もポジショナル・リリース理論も、元を辿れば偶然の発見である。例えば、ペインクリニックでブロック注射を打つ際に、注射針を入れた瞬間に痛みが消えるという現象があった。まだ薬液を入れる前にも関わらずである。そのようなことから、痛みの中には、患部とは離れた場所に何らかの不都合が生じていて、関連痛として起きているものがあるという結論に達したわけである。それが、西洋らしく経絡概念を使わず、筋・筋膜上にある種の組織拘束が発生した結果、と表現しているわけだ。トリガー理論にせよ、ポジショナル・リリースにせよ、まだ発展段階である。どのような教本を見ようと、完全なものはない。だから、次々とトリガー・ポイントなり、テンダー・ポイントなりが発見され、これから充実していくことになるだろう。

 

 さて、この筋・筋膜の組織拘束は全身に可能性がある。したがって、従来の教本では足部に触れているにせよ、我々の臨床実感からは実に不満足な記載しかない。足ばかりを揉んできたのだから仕方がないか。特に足裏にできる筋・筋膜上のストレスが全身の筋膜系の歪みを生み出し、それが原因となって諸症状を現出させているのではないかという疑念には、ほんのわずかの例を除いて答えてくれていない。足裏は非常に大きな物理的なストレスがかかる。人体では最大のものだろう。そこに何らかの拘束が生まれやすいとするのは必然ではないだろうか。“人体は筋膜を通して一体である”と述べたのはフルフォード博士であるが、であるならば、最も組織拘束が起きやすい足裏から全身の筋膜系に影響を与え、結局、元の元を辿れば“足裏だった”ということも充分考えられるのだ。

 

 個人的には、足裏がヨジレている例を多く診る。文字通りヨジレているのである。これは当然ながら、前述の足関節の動きを悪くする。従って、三関節原理適応症ということになるのだが、それ以外にも筋・筋膜上の組織拘束もまた発生しており、これらを除去したときの治癒機序はバカにできないと思っているのである。特に外反母趾系の人にその傾向が強く見られ、多くは三関節原理で説明できるのだが、それだけだと説明できない例もある。例えば、胸部、脇腹の神経痛的な症状が足底部の押圧のみで軽減されたりする。当然、これは反射区原理ではない。反射区的にはまるで関係ないところを押圧しているのだから。三関節原理でも、この部位は上手く説明できない。

 

 このようにして、筋・筋膜は人体を一体化している解剖学上の根拠でもあるから、機序と説明をうまく出来るようにと原理の中に入れた。ただし、未だ発展段階である。多くの症例を待って、体系化していくべきものと考える。志を同じくする者が一人でも増え、たくさんの症例が集まることを今後期待したいと思う次第である。

 

 技法は、安定持続圧が基本となろう。トリガー理論では平圧法と表記されているが、圧を安定させるという意味だ。ただし、折衷型でも拘束は除去し得るし、揺らし手でもポイントが的確であれば問題ないと思われる。


(8) 損傷免疫増強原理

 

 「損傷免疫増強原理」とは字句明確、意味不明な言葉だと思われるのではないだろうか。実はこんな言葉は医学的にも一般的にもない。筆者の純然たる造語である。字句どおり解釈するなら、損傷することによって、免疫力が高まり、かえって病を癒すことになる、という一種のマラリヤ療法的な考え方である。現実にそのような機序で治ることがあるので、ここに原理の一つとして入れた。

 

 お灸の例で説明してみたい。お灸の効果を考えるに、どのような機序があって効くのだろうか。今でこそ、皮膚ガンを発症させる可能性があるため、お灸といえども、ヤケドさせることなく、つまり、皮膚を焼く寸前に灸を取り去るか、若しくは初めから温灸という形で温めるだけというものが一般的である。しかし、言うことを聞かない子供に対して「お灸を据える」という言葉が比喩的に使われているくらいだから、昔は皮膚に微小なヤケドを負わせていたのである。

 

 このとき、経穴に対する刺激は勿論のこと、身体を温めることによる治癒機序が考えられるのだが、ヤケドさせるお灸に限って、その治癒効力は随分と長い期間に及ぶとされているものである。むしろ、お灸の効果は一ヶ月後、二ヵ月後に本当の真価を発揮するという研究者もいるくらいだ。

 

何故か?

 

 実は微小なヤケドは当然ながら身体に対する侵襲である。つまり人工的な損傷を負わせているのである。生体は傷を負えば当然、それを修復させようとするシステムが稼動し始める。お灸の場合は、感染症や化膿を防ぐため白血球が増えて、防衛しようとするわけだ。事実、お灸(焼く場合の)の後、白血球が増えることが確認されている。白血球に限らず、身体全体の治癒システムの発動が期待できるものといえるものだ。

 

 毒をもって毒を制すという考え方にも通じ、このような考え方というのは、例えばホメオパシーにも見られるように、古典的治療の世界では普遍的な考え方なのである。同じような考え方から、様々な民間療法も生まれてきた。特に目新しいことではないのである。

 

 今、身近なお灸という例で説明したが、実は足を揉むという行為もまた、微細な損傷を与えているものである。昔の施術はまさにそうで、ヤケドや出血こそないものの、極めて微小な損傷を足裏に対して与えていた。内出血を視認できるほどではないが、微細な毛細血管、筋・筋膜の損傷は日常茶飯時であったのだ。足は身体のどこよりも丈夫であるから危険性もなく、思い切った施術ができたのである。思うに、反射原理(交感性)と相まって、そのような治癒機序で良くなる人も随分といただろう。ただし、これはかなり痛い施術になるわけで、個人的にはどうも好かない。好かないし、またやろうとも思わないが、あえてここで原理として入れたのは、物事には必ず因果関係というものがあって、何らかの原因がその結果を招いているということを知って頂きたいが故のことである。

 

 何でも反射区が効いたという単一の原因に求める姿勢は、進歩を阻むことになる。原因を単一にすると、「強い刺激が効くのだ」という極端な意見も出て来るし、「弱く、安定的な刺激がベストである」というこれまた極端な意見も出て来る。また、訳知り顔に「程よいイタギモ施術が良い」という意見も出てくるだろう。そうなると、神学論争になってしまう。信ずる者は救われるのかもしれないが、身体はそうはいかない。ある施術法が効く場合もあるし、効かない場合もある。それを単に相性が合わないからというだけにしてしまってはいけないのである。

 

 このように、足揉み一つとってみても、様々な治癒機序が働き、そのどれかが功を奏しているわけだ。それなりに、それぞれが、意味のあることを行っているのである。ただそれが個人固有の「証」と合致するか、しないか。若しくは手技不対応の症例であるのか。常に選択肢を持って臨むことが肝要である。

 

 この場合の技法はいうまでもなく、フリクションである。それもかなり強いものだ。

 

※ ここでいう損傷を与えるという表現はあくまで微小、微細なものであるということを前提にしている。それをキッカケに治癒力が発動するというレベルのものである。大きな損傷は、かえってショックが身体に残ってしまい、組織拘束を生む。身体にマイナスであることは言うまでもなく、そのコントロールが名人と凡百の差なのかも知れない。


(9) 偽シグナル原理

 

 これもまた、字だけで読むと、分かったような分からないような原理かもしれない。しかし、これはチベット医学の考え方である。チベットは、現在中国領で、自治区として存在している地域であるのはご承知かと思う。政治的な問題はさて置いて、チベットというのは明らかに中華文化圏とは一線を画し、独自の文化を育んできた地域でもある。当然ながら、そこで発達した医学もまた、中国医学とはかなり色彩が異なる医学である。

 

 これはすべからく医学というものを僧が担ってきたせいなのかも知れない。だからといって迷信っぽいものではなく、かなり解剖学的な研究が進んでいる医学でもある。医学僧にとって解剖実習は必須のものであって、また、検体に困らぬほど、多くの人が遺体を提供するとのことだ。恐らくは、鳥葬という習慣のせいかと思われる。


 ここで筆者はチベット医学の全貌を述べようとは思わない。また、その力もない。ごく、大雑把に、その特徴を他の医学と対比させて述べたいと思う。

 

 西洋医学では、まず、病巣を特定し、その病巣を取り除こうとする。  

言ってみれば「攻撃の医学」と言えるのかもしれない。東洋医学、特に中医学を起源とする医学は、陰陽論に見られるように、エネルギーのバランスをとることによって自然治癒を促す。または邪気という言葉に代表されるように、悪いものを身体の外に出す、出て行ってもらうという考え方が強い。「バランス系、毒素排泄系の医学」と言えるだろう。


 これに対して、チベット医学は、結論からいうと「病との共生、共存の医学」である。極端な話、「病気になっちまったものはしょうがない、仲良くやっていくか」という感じだ。まあ、死生観も影響しているのだろう。この病気との共生というのは、新たな視点を提供してくれる。近年、このような考え方が日本において多数派とは言えないまでも、かなり浸透しつつある。ルーツはチベット医学にあるということは認識しておいたほうがいいだろう。


 さて、病との共生というのは、ある種、諦観的でもあり、ネガティブなものと思われるかもしれない。しかし、共生するためには努力が必要なのである。なぜなら、抛っておくと、病勢が強くなり、結局、共生どころか、侵略されて終わりということになってしまうからだ。外交にしても、近所付き合いにしても、敵対的な人と仲良くするには、それなりに努力を強いられるものということでは同じなのかもしれない。

 

 そこで医学僧は、患者を診るとき、このあたりが折り合い加減だなぁという見極めをする。
(勿論、このようにワンセンテンスで表現できるほど見極めは簡単ではないが)

 

 しかし、どうも折り合いが悪い、付き合っていくには少し病勢が強すぎると判断した場合、病気を騙す方策をとるということになる。この騙すという表現が面白い。つまり、偽のシグナルを送り、病気を混乱させ、なんとなく落ち着かせてしまうのである。そんなことができるのか?という疑問も当然あろう。しかし、そういう体系なので、筆者はその疑問にはお答えすることができない。具体的には、太めの鍼を使い、強い刺激を送ることが多いという。そこで、筆者は思い当たったのである。ゲート・コントロール理論のことを。

 

 ゲート・コントロール理論というのは、簡単に言えば、脳への情報には優先順位がある、ということに尽きる。全ての情報を脳に送っていたら、膨大な情報にさらされて、脳はパニックに陥ってしまう。そこで、とりあえず、重要ではない情報をゲート(門)でふるい落とすというわけだ。例えば、痛みの情報の例を挙げてみよう。施術家なら理解して頂けると思うが、同時に同じ程度で身体の各所が痛むということはないはずだ。肩の痛みが強いなら、肩の痛みだけを感じ、その他は気にならないもの。膝なら膝、腰なら腰、という具合に、一番抜き差しならぬ部位の痛みを感じ、その他の痛みは最初に感じていた痛みが去ったあと、感じ始める。胃が痛くて痛くて泣きたいほど痛いとき、肩コリが気になって仕方がないということもないだろう。虫歯に苛まれているときも、他の不都合は忘れている。


 このように、痛みなり不快感であっても、優先順位をつけて感じているわけだ。そのようなこともあって、もぐら叩きのように次から次へ、痛み、不快感が全身を移動し、それを追いかけるように施術するという経験をお持ちの施術家は多いと思う(勿論、その理由の全てがゲート・コントロールではないが)

 

 ここで騙すという表現を思い出して頂きたい。そう、痛みの悪循環に陥る前に、別の優先度が高い(ように見せかけた)情報を送りこませる。これを偽シグナル原理というのである。そんな簡単にいくものかね、という疑問もあるだろうが、その時のタイミングや刺激を送る部位など、かなり高度な技術を要求されると思われる。

 

 足は幸いにして丈夫であるから、大容量の情報を送りやすい。送った情報の強さや量によって、他の情報をかき消すことが出来るということだ。勿論、チベットの医学僧のように、細心の診断力と図抜けた技量があるわけではないので、的確にというわけにはいかない。しかし、反射チャートが出来る以前、リフレクソロジーなどとシャレた名称で呼ぶ以前から、足揉みが民間療法として受け継がれてきた事実を考えると、ある種の痛みや自律神経系の狂いを、足裏刺激による偽シグナルによって解消してきたと考えるのは、あながち間違いではないのではないだろうか。

 

 読者の疑問は分かる。それだと、本質的な改善に繋がらないのではないか?そんな、誤魔化しをしているなら、西洋医学の薬で、症状を抑える方法と同じではないか?


 もともと、この偽シグナル原理を使う場合は、西洋医学や東洋医学をもってしても、難治性の病に限って使うものである。自然治癒が望めるものなら、そうしているうちに治癒に至るであろうし、治らないものは治らない。この治らないという病に対して、共存を図ろうとした方法論であることをご承知置き願いたい。人間は、所詮は死ぬ。それが病であろうと、事故であろうと、老衰であろうと、絶対確実にいつか死ぬ。いつか死ぬのであれば、難病に冒されたとしても、ジタバタせず、少なくとも生きている限りは上手く付き合って、快適に過ごそうではないか、という達観した思想から出てきた医学ともいえる。まさに文化的な所産ともいえるだろう。死生観抜きには語れぬものだし、文化的育ちが違えば受け入れ難いものかも知れない。しかし、未だ現代医学は全ての病を克服したわけではないので、いずれ、この考え方に個人として到達すると思われる。事実、そのような考え方で難病と向き合っている方を大勢知っているのである。

 

 この偽シグナル原理を知ったとき、足揉みの新たな可能性に目を開かせられた。“偽シグナル”などと名前だけを聞けば「詐欺」みたいでカッコ悪いが、それが示唆するところは、実に奥深い。人は病を得て、悩み、苦しむ。それが難治性のものなら、恐らく絶対的孤独感ともいうべき孤絶状態に陥るだろう。精神的にも肉体的にも、拷問のような責め苦に苛まれるに違いない。足を揉むという行為の中に、既に孤独を共有する方途がある。スキンコミュニケーションによる共感があるのである。

 

 人は理解されたがっている。理解されることによって全てを受け入れる。そして全てを受け入れることによって楽になるという。それは諦めとも違う「受容」としか言いようのないものである。人は最後の最後、このことを学んで旅立つのであろう。最後の手助けができるというのは、なんと素晴らしいことか。生涯にただ一人でもそのような人に出会い、手助けできたなら、それは生きてきた価値があるというものだ。

 

 偽シグナル原理は、方法論や技法論以前の、考え方の問題である。クライアントの考え方がその方向性でかたまっていないと、施術者としてはストレスがたまる。また具合悪くなった!まだ良くならない!どうにかなんないの!・・・etc。いくら人のための身を捧げようと、この道を選んだ高貴な精神の持ち主である施術者でも、これではたまらないだろう。しかし、耐えねばならない。そして、あるとき、クライアントの考え方が一変する場面を目撃する。イラついて不平不満の塊みたいな人が、穏やかで柔和な人柄になるのである。病は未だ癒えずとも、である。病気と上手く付き合っていく決意をした瞬間に、このような変化があるから面白い。そして、そのような変化のあと、大概は症状も軽快してくるから不思議だ。偽シグナル原理は名前こそカッコ悪いが、心の変化をもたらすことに意義があるのである。だから、一生、修行なのだ。治らないものを治るといえば、これは本当に詐欺であるが、あるがままを認識させ、それを受け入れさせるには、極めて高度な精神的触れ合いが必要なのである。技法的な問題は二の次であろう。


 したがって技法的には、フリクションでも、安定圧でも、折衷型でも構わないと思う。得意な技法で行えばよい。また、チベット医学では、太鍼による大ドーゼを使うらしいが、足の場合、強い刺激でなくとも、功を奏すると思われる。(経験上)


まとめ

 

 九大原理などと、仰々しく表題をつけて偉そうに論じてきたが、言いたい事はたった一つである。人の身体というのは、たった一つの原理によって支配されているものではなく、勿論、治癒の機序も一通りではないということだ。どの原理が働いて治癒に至っているのか、分からない場合も多い。分からなくても良いのである。なぜなら、複数の原理が同時に働いて治癒機序を生み出していることも多いからである。“人は生まれながらにして知ることを欲する動物である”とアリストテレスが言ったそうだ。まさに知ることを欲するが故に、様々な可能性に思いが及ぶわけだ。足の施術一つ取り上げても、このような九つの機序が考えられる。当然、未だ、論旨不明確な原理もあるだろう。文章力の拙さから、意図を正確に伝えきれていない部分もあるかもしれない。私自身、これから思索を重ね、さらに原理が拡大されるかもしれないし、より論理が補強されていく可能性もある。自身、発展途上なのである(永遠に発展途上かと思われるが)

 

 どのような理屈をつけようと、どんな論理で説明できようと、根底には「人の役に立ちたい」という思いがあろう。これがあるからこそ、自身の力のなさに愕然とし、役に立てなかった、という無念さが生じる。

 

 栄位栄達を求めるなら、技術はそこそこで、あとはビジネスだけを考えればよい。ビジネスだけを追求するならば、そこに気持ちが集中しいるわけだから、その才能に応じてそれなりに成功できる。しかし、この仕事は本当の意味で、他人に対する愛を顕現する方途なのである。それを実現するために技術を磨く。そういう気持ちを持ち続けている限り、様々な難しいと思われる技法も自然に身につくと思う。もし、自身の栄達のみの野心だけで技術を身に付けたいと考えても、必ず限界がくる。

 

 勿論、最初から高貴な目的を考えてこの道に進んだ者だけではないだろう。私も単なる好奇心だった。しかし、やがて「なんのためにやっているのか」という、おそらくアイデンティティーの問題に直面することになろう。そのとき、身体が大変なので違う仕事を、とか方向転換するに違いない。それはそれで個人の自由なので言うべき筋合いのものでは全くない。情熱を維持できるかどうかは使命感の問題なのである。切実に「人の役に立ちたい」という気持ち。ここから派生するところの様々な技法、原理。そうでなくては、この小論は一片の価値もない。書くことも読むことも時間の無駄である。

 

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足証図(イラストby Machiko Watanabe)-経絡原理参照