医は"意"なりと申して・・・

医は意なりと申して・・・
ここでいう"意"というのは文字通り「意志」「意思」「意識」と考えて差し支えあるまい。


大雑把に現代語に訳すると「医療行為というのはそこに"意志"が働かねばならない」という実に当たり前のことを言っているのだが、何故、古(いにしえ)の名医達がこのような当たり前のことをわざわざいうのだろうか?

 

漢方の歴史の中で言われてきたものだが、この文章だけを取り出して紋切りに解釈すると誤る。当然バックボーンがあるので、それを少し説明したい。

 

漢方にはこういう格言もある。
「方を読むこと三年、天下治さざるの病なく、方を用いること三年、用ゆべき方なし」

 

修行時代には心血を注いで、古典の名著から処方を学ぶ。こういう症例にはこういう処方、この場合はこう、あの場合はこれ・・その時代の俊英達が真剣に学ぶわけであるから、真綿が水を吸収するが如く身に付けていったことだろう。

 

ただし、それは机上でのこと。つまり、まだ知識の段階だ。
しかし、たとえ机上であっても、三年もやっていると、あらかたテキストの処方は覚え込み、まるで名医になったような気分にもなるに違いない。
まさに「天下治さざるの病なく」(自分に治せない病などない)という心境だろうと思う。

 

しかし、必ず、実際の患者に相対する時がやってくる。
すると・・・どの患者も、学んできた症状とは微妙に違うような気がするわけだ。
『あれにも当てはまりそうだし、これにも当てはまりそうだし・・・』
「用いること三年、用ゆるべき方なし」(実際の臨床では、ドンピシャにはまる処方を見出すことができない・・・そんな研修医時代がやはり三年続くよ・・と)

 

そんな状況をたった1行、「方を読むこと三年、天下治さざるの病なく、方を用いること三年、用ゆべき方なし」で表現しているわけだかから、文語体というのはなんと効率の良い表現法であったことか。

それはさておき。
どうしてこんなことになるのか?。

 

机上での勉強はまだ理屈、知識の段階であることは述べたとおり。しかし、現実世界においては、何事も理屈どおりにいくことなど少ないのは読者も経験があると思う。ピーター・ドラッガーの本を真剣に読んだからといって誰でも名経営者になれるわけではないように。

 

そこに何が必要なのか?
その答えが、少なくとも医業に関しては"意"だと。

 

この"意"というのは説明しづらい概念ではあるが、現代語で一番近い訳語、つまり意訳すると「機転を利かす」ではないかと思う。

特に漢方というのは科学的な論理体系が完成する以前に成立した医術だ。(科学的じゃないからと言って役に立たないということではない、念の為)

 

そうすると、経験とか勘というのが大きなウエイトを占めることになるわけだが、その経験則や勘みたいなものを用いる-すなわち機転を利かすことによって、古典に記載されている証とは微妙に違う症候を正確に捉え、匙加減によって解決していくと・・・そんなイメージではなかったろうか。

 

ならば、この"意"つまり「機転を利かす」というのはとても重要な要素であることは容易に想像が付く。


私は漢方家ではないが、現代における整体業こそ、昔の漢方に一番近いセンスが要求されるような気がして仕方がない。

 

整体師の中には機転を利かすのに敏で、正式に習ったことがない、もしくは大した体系もない整体術しか修めていないのに、そこそこ治せる者がいる。このようなことができるのは、案外、機転を利かすことが先天的に出来る種類の人間ではないかと思っている。

 

しかし、悲しいかな、限界がある。
本人はそれなりにやっていると思っているが、とっくに限界が来ていて、ある水準以上になれないのに気付いていない。

 

実は漢方の歴史の中では、そういった類の医者も多くいたようで「医は"意"なり」とばかりにさっぱり勉強しないという風潮もあったらしい。


そこで「"意"は学より生ず」と名医(師匠)は不勉強を諌めるのだが、いうことを聞かない弟子はいつの時代もいるもので「学医、匙が回らぬ」(学者に匙加減など分かるものか)と反論して一向に態度をあらためなかったという。
器用で勘が良いのも困りものである。

 

これらのエピソードは、学ぶということと、機転を利かすというバランス感覚が如何に重要で、またそれを身に付けるのが如何に稀有であるかを示唆していて、実に興味深い。

 

原理主義、教条主義に陥らず、かと言って機転を利かすだけの小器用な者にもならず・・・
正当な知識、体系を身に付けた上で、機転を利かし、要所をビシっとしめる術者にならねばならないわけだ。

 

私は「整体術もまた"意”なり」とは思うけれども、同時に臨床によって裏付けされた正当な体系なくして、任務など全うできるものではないとも思っている。


手技は生体に親和的で危険性が少ないが、人の身体に直接触るのである。
機転だけで良いはずもなく、かといって融通の効かない原理主義者はもっと危険なことをやらかすかもしれない。

 

「医は意なり」を体現し、それでいて独り善がりにならないようきちっとした体系を身に付けるにはどうしたら良いのか?

 

古の漢方のテーゼでもあるこの問いこそがリフレパシー整体の原点でもあった。
そして、そのシステムを今、確立したと思っているのである。

 

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