リフレパシー整体のエース。今もっとも予約の取りづらい「人気整体師」、時には「奇跡の整体師」と呼ばれる高本福三氏がレーベル病という極めて珍しく、かつ難治性の病(眼病)に挑戦した記録がある。最近のフェイスブックに記載されたものだが、FBにアカウントを持っている人ばかりではないだろうから、その一部を引用し、コメントさせて頂くことにした。「難病への取り組み」という記事をブログアップしたタイミングともシンクロしていたことでもあったし。
さて、予め断っておくが、これは施術の成功例ではない。クライアントの期待に応えられなかったという意味では失敗例である。実は失敗例の公表は相当、施術に自信がないと出来ないものだ。いつも失敗ばかりで、たまに成功するなら、成功例ばかりを書きたくなるくらいのことは容易に想像が付くだろう。あえて、失敗例を記すのは豊富な成功臨床経験がバックボーンとなって、多少のことでは微動だにせぬ信念があるからこそのものである。
そして、自らの慢心の戒めと、さらなる精進の決意の現れでもある。我が流儀の伝統なのだが、そういう意味でも彼は正当な継承者の一人である。
引用
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以前の「施術メモ」で、同じ「レーベル病」の広島のクライアント様を書かせていただきました。
そのクライアント様の経過ですが、初めは施術メモにも載せたように「食器皿の柄がうっすらと見えるまでになった」というところまで視力が回復し、経過は順調でした。
ですがその後のある日、アルコールをいつもより多めに摂取された時から、以前の失明状態に戻ってしまったとのこと。
それから何度か施術をさせていただきましたが、今までのように症状がほとんど改善の兆しを見せず、施術中に出ていた「身体の反応(治癒力が働き始めたサイン=症状の箇所に響く感覚があります)」も無くなってしまい、結局施術は中断となりました。
なぜ急に症状改善が止まってしまったのか。
●アルコール大量摂取が原因なのか
●改善に至るまでに起こる「足踏み状態(この時には施術しても目に見えた改善は見られません)」の時期に、たまたま入っていただけなのか
●改善するにつれ、知らないうちに自分の施術中に「力み」が生じてしまっていたのか(手技によるレーベル病の完治というのは全国初、という気負いがあったのかもしれません)
色々可能性は考えられますが、はっきりと確定はできません。
人の身体は一筋縄ではいかない本当に奥深いものです。まして発症のメカニズム・治療法すら分かっていない病気となると・・・。
最初は経過が順調だっただけに、本当に残念です。
そしてそれ以上に、このクライアント様の女性とそのお母様の途方にくれた顔を思い起こすと、自分の力不足と責務を果たせなかった思いはずっと残っています。
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レーベル病はミトコンドリア遺伝子異常から起きる視力障害疾患で、ミトコンドリア病に分類される病気としては最初に発見された。遺伝子異常から起きる病だけに難治中の難治であろうことは容易に想像が付く。
さて、我々の治療手段は、身体が本来持つ治癒システムを発動させることに尽きる。しかも、手技療法というくらいだから、ほとんどの場合、素手である。そんなことで遺伝子異常に対処できるのか?という疑問はあるだろう。
もっともな意見だと思う。その疑問のとおり完治させられないことだってあるし、この例のように一旦良くなったとしても、また悪化して浮上すらできないこともあるだろう。
しかし、身心の未知なるシステムは時として奇跡的な成果を生み出すことだってあるのだ。完治は叶わずとも、大きく改善し、QOLが別次元になった症例も数多く経験している。
さて、このブログの表題が「眼病」であることに注目されたい。じつは、眼に現れる病気というのは、レーベル病であっても、網膜色素変性症であっても、緑内障、白内障、果ては単なる眼精疲労であっても、ある一つの事実によって悪化していく。
その事実とは、眼という器官は身体の組織の中で最も酸素を消費するという特性を持つものであるいうこと。具体的には、単位重量当たり、肝臓や脳の3倍もの酸素を消費するという事実である。
視力は日常生活を送るに当たって必要欠くべからざるものだ。例えば、障害保険などでも、両眼失明は死亡保険金額と同額と査定される。つまり、死亡と同等と見なさるのである。
しかしこれは社会生活を営む人間としての価値感であって、生命維持の観点だけからいうと、脳や肝臓よりも優先順位は低い。
つまり我々の身体は肝臓に血液(酸素)を必要とした場合、眼の働きを犠牲してまでも肝臓への供給を優先させるのだ(脳についても同じ)。これは生来備わっている生物としての所与の条件なので変えることはできない。
故に東洋医学では眼には五臓六腑の精が宿るとし、特に「肝・胆」の支配を受けるとしてきた。肝臓の機能低下が大量の血液供給を必要とし、眼への配分が減らされるとなれば、眼への直接的治療よりも、間接的な「肝・胆」の治療のほうがむしろ原因療法となることは自明の理である。解剖生理の知識がない中、観察と経験値よって真理を導き出してきた古人の英知を決してバカにできない所以である。いやむしろ大いにリスペクトすべきであろう。
さて、すると、
●アルコール大量摂取が原因なのか?
という高本氏の疑念は正当なものであるということが分かる。
過剰なアルコール摂取は、すべての眼病の悪化要因となる。アルコール分解という仕事は肝臓に多大な負担をかけるのであるから当然だ。そしてそれが難病であればあるほど、回復させづらくする。
ではどうするか?
この病の場合、極めて難治性の高いものであるから、功を奏するかどうかは分からないが、上肢の「肝・胆」を重視してリカバリーを図るしか方法はないと思う。
古典経絡では上肢の「肝・胆」経は省略されているが、増永経絡では省略されておらず、眼病の特効穴と云われてきた大腸経「曲池」が胆経にほぼ接している様子を見ると、上肢の「肝・胆」経が機能するのが分かるし、また経験から言っても機能するのは、疑いようのない事実である。
また眼に関しては下肢よりも上肢の方が効くことも経験上、熟知している。
普通の眼病ならば、ひとまずこれでリカバリーできるはずであるが・・・この度の例は難しいかもしれない・・・″覆水盆に返らず″痛恨の極みではある。
●改善に至るまでに起こる「足踏み状態(この時には施術しても目に見えた改善は見られません)」の時期に、たまたま入っていただけなのか
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専門的には「プラトー」という現象だが、難病であればあるほど起きやすい。これは眼病に限らない現象なので、あらためて述べさせて頂く機会もあろう。
●改善するにつれ、知らないうちに自分の施術中に「力み」が生じてしまっていたのか(手技によるレーベル病の完治というのは全国初、という気負いがあったのかもしれません)
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軽症であれば「力み」があろうがなかろうが、さほど満足できる施術でなくとも、関係なく良くなる。つまり照準が広いのである。
ところが、難治性で手強い症例においては、針の穴を通すような繊細さが要求される。わずかな「力み」さえ手元を狂わせ、しかるべき処にしかるべき圧が到達せず、その結果、思い通りの結果に至らないことがある。そんなゴルゴ13みたいな世界があるのか?という問にはあるとしか言いようがなく、実感だけが納得の術(すべ)である。彼が「力み」が入っていたかも知れないと感じていたなら、それはそうなのかもしれない。
どのような場合においても平常心でベストパフォーマンスを行い得る施術者こそ、施術家と呼ぶにふさわしく、また名人とも達人とも呼ぶべき境地だと思うが、それが出来たと思った瞬間に進歩が止まる。つまりこのような自問は、すでにあるレベルに達していたとしても、常に内省し発していかねばならないのである。凡百の施術者など及びも付かない境地である。
(ベストパフォーマンスと言っても低いレベルのパフォーマンスじゃ話にならないことは理の当然)
これも眼病に限らないので、また述べる機会もあるだろう。
ともあれ、この度は眼病の中でもとびきり難治性のものであった。ここでの引用は割愛させてもらったが、彼が採った治療方針は首へのアプローチであるという。正解である、というよりも絶対公式みたいなものだ。眼の状態は肝臓や脳の状態以上に首の状態に左右される。
したがって、アプローチには全く過誤がない。
(その証拠に初回は改善している!)
結果がどうあれ、悔いが残るとすれば、過剰飲酒のリカバリーに上肢経絡を使い得ていたかどうか?というところだろう。
しかし、そもそもが、眼病に対して、施術後の大量飲酒を前提としてのリカバリー術などは想定しないものだ。
私も勉強になった。眼病に限らず、ある部位の修復プロセスには栄養と酸素そして血液の浄化が不可欠である。大量の飲酒はいずれの機能要素(肝腎)もダウンさせる。
(肝腎要(かんじんかなめ)とはよく言ったものだ)
そのリカバリー術を体系として、あるいは施術パターンとして把握しておく必要があるのではないかと、彼の記事を読みながら、思い至った次第である。
上肢の経絡施術をピックアップしてパターン化しようとしたタイミングとなぜかシンクロしていた。不思議なものだ。