施術雑感

施術雑感(1)

人の身体は面白いものだ。千差万別、多種多様。性格も顔も違うわけだから、体質や症状が違って当然。今更、そんな当たり前のことを言うな!とお叱りがあるかも知れない。


しかし、頭で分かるのと現場で痛感するのとでは大分違う。例えば、痛みを抱えたお客さまが来たとする。痛みの箇所を経絡的に判断し、経絡に則って施術すると症状が軽快するわけだ。この時、まざまざと経絡の存在を確信するのだが、技量不足もあって、それでは思ったような改善がみられない場合もある。この時、経絡を一旦離れて、筋肉の拮抗関係を利用して施術すれば軽快に至ることもある。これに味をしめて、筋肉の拮抗関係のみで施術を行っていると、全く逆の場合が起こることもある。

 

あるとき、どうやっても痛みが取れない人が来て、筋肉の拮抗関係やら、経絡やら色々試してみたが、駄目。なんとその人は痛む箇所に「手当て」するのが一番効いた。


手を当てるだけである。そこで「手当て」が一番効くという結論に達するのは早計だ。別の人は経絡治療が効いたり、拮抗筋療法が効いたりするのだから。

 

経絡治療家なら、それら全部ひっくるめて経絡の「虚実補瀉」と言うのだ!というのかも知れない。つまり、「お前の経絡に対する理解が不足しているのだ!」という批判。

 

まあ、その批判は分からないでもないが、現場は治してナンボの世界だから、何でもやるのである。特に経絡は奥が深い。経絡の理解度100%は無理というものである。それとせっかく解剖学的知識を得られる現代に生きているのだから、筋肉の拮抗関係を利用するのを是としなければ損をするのではないか。

 

しかし、前述のように様々な知識、テクニックを駆使しても治らず、単純素朴な「手当て」で治る場合もあって、この世界は面白いのである。

 

施術雑感(2)
人によって足部の療法が一番効いたり、手への施術が効いたり、そうではなく体幹への指圧が効いたりする。雑感(1)で述べたように、人によって様々である。


そうすると、ほとんど数えきれぬ種類の手技法を身につけ、人によって何が一番効くかを見極めて使い分けしなければならないのかという問題になる。

 

その問題の前に「効く」とか「改善する」とか「治る」という意味について考えねばならない。現場ではその場で「効き」、次に来た時は「改善されており、最終的には「治った」というのが理想である。理想というよりも切実なメシの種ではないか。

 

しかし、「効く」というのと「改善する」というのと「治る」というのは、全然違うレベルのものと認識しなければならないのである。

 

手技法家にとって、「効く」というのは、痛みの軽快をもって「効いた」と判断してよいのだろうか。施術後の爽快感をもって「効く」としてよいのだろうか。爽快感は交感緊張による一時的な活力の湧出の場合もあるからである。疲れたときに栄養ドリンクを飲んでシャキッとすることも「効く」ということであり、頭痛持ちが頭痛薬を飲んで一時的に頭痛が消えても「効く」ということである。


少なくとも自然療法である手技を行う者は、同じ「効く」という現象に対して、それが将来、「改善」に繋がり、「治る」ということに繋がる「効き方」を意識すべきである。


そうすると、技法を選ぶ際、かなり限られてくる。無制限の中から選ぶというわけではないのである。ただ、ここら辺になると、施術者の人生観やら哲学的な問題が絡んできて、中々同意を得られないのが現状だ。その場で「効いて」何が悪い?という反論は単純にして説得力のある意見だ。その先を考えよといっても、現場では次々とお客が来て、それなりの満足感を与えねばならないし、余裕がないといえば余裕がない。


しかし、施術を継続することによって、「効いて」いながら自然治癒力を減衰させていく場合だってあるのである。これは知らなかったでは済まされない。極端にいえば、人の命に関わるからだ。手技は生体に優しく、薬のような副作用がない分だけ、そうしたことが目立たない。目立たないけれど、継続すれば必ず害が表れる施術の仕方だってあるのである。

 

前回、「現場は治してナンボのものだから何だってやるのである」と書いたが、厳密にいうと、「己に課したルールの中で」という枕詞が必要である。


そのルールとは、少なくとも私に関していえば、改善→治癒と移行できる技法に限られるというものである。

 

施術雑感(3)
実は「治す」ということは非常に難しい。単に「効いた」というのを「治した」と誤解していたり、「改善」したのを「治した」と勘違いしている人もいる。

 

病や症状というのは、それぞれ理由があって起きているものである。それぞれの人生の歴史的産物として現在の病がある。もしかしたら、前世にまで遡って原因があるのかも知れない。病の根をすべて断ち切って本当の健康体になれば、それは治したことになるのだが、そう一筋縄ではいかないものだ。せいぜい症状改善くらいがいいところだ。


本気で治すつもりなら、「瞑眩反応」は覚悟せねばならないだろう。あるいは一進一退という状況も、あるいは疾患箇所の移動ということも覚悟すべきである。

 

根が治ってないのだから、症状が別の部位に出るということがある。これを症状の移動というが、同じ症状が単に身体を移動するという場合は、分かりやすいだろう。


最初、首にあった痛みが、肩や背中に移っていく類である。

 

そうではなくて、全く別の病の形態をとることもあるのである。例えば、ムチ打ちが消えて、うつ病になるとか。この場合は、施術者としての責任は一応果たしたことになるというか、因果関係からそれを類推することができないので、新たな病に罹ったという認識しかない。旧の病は消えているのだから。

 

そうなると最早、施術のレベルを超え、形而上学的な問題である。その人は、病で苦しむという宿命そのものに原因があるということになるわけだ。


私にはとっても、そこまで踏み込んで治す技量はない。自分にないのに人にそうせよという資格がないのは当然だ。資格がないのに言及するのは、「治る」とうことはそう簡単で、単純なものではないということを、分かってほしかったからである。

 

しかし、そんな深いレベルで病気になっている人ばかりではない。本当に治ることだってある。歪みが折り重なるようにして沈殿して、現症状を呈している場合は、複雑で期間はかかるにせよ、その歪みを一枚一枚、薄皮を剥ぐようにとってあげれば、いつか治癒に至る。それを押し込めて、或いは麻痺させて「治した」と誤解してほしくないし、「効く」という現象だけを捉えて、歪みを深くするのは万死に値する・・・と思うのだが・・・

 

施術雑感(4)
足の裏は施術するのに安全なところである。より歪みを深くすることは、身体の他位に比べて少ない。だから、各種技法の許容度が高いともいえる。強く揉んでも、まあ痛いくらいで、その結果、重大な危機に落とし入れるということはない。弱く揉んでも、症状改善する力は弱いかもしれないが、少なくともリラックスできるし、気持ちがいいわけだ。


あとは、好みでどちらかを選ぶということになる。痛いのがいいという人もたまにはいるが、基本的に、人間は痛いのが嫌いだ。しかし、日本人の遺伝子に組み込まれている要素として、痛気持ちいいという「イタギモ」感覚は見逃せない。だから、欧米式であろうと、中国式であろうと、日本においては、最終的には「イタギモ」感覚を与える方向に収斂していくだろう。

 

もう一つ、日本人が好きな感覚がある。日本人というより、もっと普遍的なものであるかもしれない。それは深部感覚である。ツボ感覚といってもいい。表面的な皮膚感覚よりも、さらに奥にある押してもらいたいところを持続的に押された感覚で、奥に響く感覚、そしてその響きが広がっていく感覚である。これは、外国人にも心地よく感じられるらしい。だから、人間が本能的に求める感覚なのかもしれない。

 

特に日本人は、ツボに当たった、ハマッタ感覚というのを、遺伝子レベルで受け継いでいるらしく、このような深部感覚に不快感を示す人は少ないのである。


足証療法とは、このような感覚を足部全般にわたって与えていく療法である。
強い刺激でも弱い刺激でもない「深い刺激」である。

 

日本人が作った「指圧」という手技は、本来このような刺激を目的として作られたものである。現在、指圧は「SHIATSU」として世界中で採用されている手技法となっている。
足証療法もまた、リフレクソロジーのグローバルスタンダードとなる日を夢見て、日々頑張っている次第である。

 

施術雑感(5)
アロマテラピー(セラピー)という療法がある。ロバート・ティスランドという研究家が書いた「アロマテラピー」(フレグランスジャーナル社刊)という著作によって知った。もう随分昔のことである。(10年以上前かな)。確かにアロマテラピーは古い歴史を持つが、漢方のように体系化され、臨床を繰り返すという膨大な経験を持っているものではない。だから、多少こじつけっぽい感じがして、すんなりと入ってはいけなかった。

 

今でも、後世の審判に耐えうる処方体系を持っているんかいな?という疑念はある。
しかし、診断、処方体系はこれから整備されるにしても、精油(アロマエッセンス)の持つ効果に疑念の余地はないと思っている。


アロマは、揮発させて嗅覚に訴える部分と、皮膚から浸透させる部分があるが、手技法家にとっての興味は経皮作用の部分であろう。だから、リンパドレナージュ的な手技には欠かせないアイテムとなる。アロマの知識を求めるのは、そこからの要求であろう。


足証療法は、基本的に一点を相手と一体になるほど深く押圧する技法を使い、マッサージ的テクニックはあまり使わない。だから、経皮作用があるといっても、必要不可欠なアイテムというわけではない。しかし、一年位前であろうか、精油を指にわずかつけて、深い押圧を行うと、指に触れる深部のシコリの寛解作用があることを発見した。そのときはイランイランだったが、それがラベンダーならどうかとか、あるいはどうブレンドすればもっと効果があるのかという研究はしていない。他の研究で精一杯であったからである。
今後の研究課題である。


もしかしたら、精油がツボに与える効果というのは、考えている以上に大きいのかもしれない。東洋的なツボとアロマエッセンスとの親和性について研究してくれる人が現れないものだろうか。残念ながら、今の私には研究の時間的余裕はないのである。
機能系、作用系を体系化した経絡との親和性もまた、興味深いものである。


いずれにしても、一生かかる大仕事である。アロマに関しては、他所の研究を頼りにするしかない。

 

施術雑感(6)
最近、リフレクソロジーの世界においても、カウンセリングが重要視されるようになってきた。喜ばしい風潮である。カウンセリングなき施術は単なる作業である。作業は単純労働であって、知的労働ではない。リフレクソロジーに限らず、療術というのは、自身の肉体を使うにせよ、知的労働でなくてはならない。


しかし、東洋医学では、もともと心身一如という思想があって、心と身体を分離して考えない医学である。東洋医学自体に心理療法的要素が含まれるわけで、心理的なカウンセリングは施術の中に組み込まれているのである。


だから、カウンセリング重視といっても、ことさら、大げさに考える必要はない。施術を受ける側が、聞く耳を持つという状況にさせる施術を行なうほうが重要であろう。


施術に満足せずして、誰が聞く耳を持つかということである。


施術中は、施術者とお客様との間で無言の会話が行われている。皮膚と皮膚が接触するという、より本質的なコミュニケーションが行われているのである。言語によるコミュニケーションよりもはるかに直接的で、本能に訴えるコミュニケーションである。言語は飾ることができるが、スキンコミュニケーションはダイレクトであり、誤魔化しが効かない。しかし、現代人は本能的な感知力が鈍くなっているわけで、言語で補足してあげれば、尚いいわけだ。あくまで本能や原始的な感覚に訴える施術ができるということが前提になる。

 

施術は手段である。治病という目的に対して、或いはリラクゼーションという目的に対する手段として施術があるわけだ。当たり前だが、手段が目的になってしまうとおかしなことになってしまう。施術が終わったら仕事が終了するというものではない。そういった意味でも術後のカウンセリングが重要視される。言語による誘導もまた、必要な場合があるであろうし、そのためのツールも必要な場合もあろう。しかし、前述したように、言語誘導のみを重要視すれば、肝心なスキンコミュニケーションの技を磨くことを軽視することになりはしないか。カウンセリングの重要性を深く認識しつつも、本来の手段である手技の奥深さに気付くべきであろう。

 

施術雑感(7)
施術者にとって最も重要なのは、施術実感であろう。実感なき施術は、根無し草のようなものである。施術実感とは、お客様に喜んで頂けたという他人の評価ではない。勿論、それはそれで大事なことであるが、他人の評価のみで施術者の気分が変動するというのは、自分の人生を人任せにするということに等しいと思う。


だからといって、自分の実感が全てという独善的な態度であっても困るので、難しいところだ。実感には様々なレベルがある。自分がどのレベルで実感しているのか分からないであろうが、少なくとも、それが全てではないという認識を持つという前提があれば、実感を重要視すべきである。

 

手技においては、直接、相手との肉体的なコンタクトがあるので、実感は触覚的に得やすい。被服を通さないで、素足と素手が直接コンタクトされるリフレクソロジーにおいては、尚更である。リフレクソロジーにおいては、最低でも足底のシコリに触れ、それが溶けていく実感を得ないといけない。深部硬結の緩解を持って実感とすることが、最初のレベルとなるのではないかと思う。最初のレベルといっても、私自身はこのレベルに到達するだけでも、随分と時間がかかってしまった。そもそも、深部のシコリに触れるという概念がなかったのである。だから、足揉みに出会って19年のキャリアがあるといっても、実はたいしたことはないのである。自分でいうのだから、間違いない。


相手が痛がっているのを見て、効いていると実感?したり、相手がスヤスヤ寝入っているのを見て、いい施術をしているのだと実感?したりと、本来実感でないものを実感と勘違いしてしまったりしていた。笑わないで頂きたい。

 

実感とは言葉を変えて言えば、何を頼りに施術するかということである。相手の反応だけを頼りにすれば、冒頭でいったように施術者の主体性はなく、根無し草みたいなものである。考えてみれば、自分の実感を深めるために追い求めてきたようなものかもしれない。

 

施術雑感(8)
手技にはもともと慰安的側面(リラクゼーション)がある。足は特に気持ちがいい。他人から足を触ってもらっただけで、実に心地よいと感じる人が多いのではなかろうか。身体に触られるのは駄目だが、足ならいいという人もいる。


しかし、この慰安的な側面をクローズアップして、それのみで開業しても失敗する。

 

それで成功する為には、各都市の一等地で開業せねばならない。
個人開業はそんなところで出来るわけがない。保証金が何千万円の世界である。

 

個人開業はマンションの一室や自宅の一部、せいぜい店舗といっても準一等地であろう。より直接的な言葉を使おう。
リフレクソロジーというとカッコ良さそうであるが、それではメシは食えない。


「治す」という言葉は法律的にも問題があるが、あえて使えば「治す」技術を持たなければ食えないのである。治すまでいかなくとも改善する技術をである。

 

費用対効果の問題で、個人が宣伝費にかけられるのは限られている。そうすると、口コミで広がっていくことが必須である。口コミとは紹介のことであるが、どのような場合、人は紹介し、紹介された人がそこに赴くであろうか。身体に悩みを持っている人の場合である。深刻な病の場合は、入院しているであろうが、入院するまでもないが、つらい、痛いという人はたくさんいる。このような人の満足が紹介を呼び、あるいは紹介されるという連鎖を生むのである。症状を改善する力を持たなければ、紹介の連鎖は生まれない。

このことは、いかに言葉を飾って誤魔化そうとしても、動かし難い事実である。


群を抜いた営業センスを持っていれば、この限りではないが、だいたいそのような人はこの世界に入ってこない。どちらかというと、営業の下手な人がこの世界に入ってくるわけだから、結局、スクールの宣伝文句につられてこの技術を学んでも、失敗するという結果が多いのである。

 

リフレクソロジーは民間資格であるから、その資格だけではなんの価値もない。リフレクソロジースクールにおいて何を学ぶのか?
それは、足の揉み方ではないのである。症状が改善される技術を学ぶのである。


足の揉み方を習得するのが目的ではなくて、症状を改善させる(あえていえば治す)という目的において、その手段として足を揉む方法を学ぶということを認識せねばならない。幻想は禁物である。

 

ボランティアとしての足揉みなら、どんな施術でも喜ばれよう。お世辞の一つも言ってくれるかもしれない。しかし、施術料を頂くというのは、ペイに見合った満足を与えねばならない。ボランティアは尊いことである。しかし、そのときウケタからといって、実際お金を頂くプロとして開業した場合、あまりの反応の乖離に、「こんなはずじゃなかった」と後悔するのを見過ぎた。


なんのバックもなく、宣伝費もかけられず、飛び込みでくるお客もいないという個人開業においては、改善できる技術のみが頼りである。

対価3千円に対する満足度と、対価1万円に対する満足度は全然別物である。であるから、施術料の設定もまた重要であることは間違いない。

 

(9)身体の歪みⅠ
ここでいう、歪みとは物理的に身体が曲がっている(筋肉の不均衡、骨格の変位)だけのことではない。療術業界ではよく使われる言葉でもあるし、実際、私もよく使う。すでにこのHP上でも使われているし、これからも使うので、ここでその概念をある程度、明らかにして置きたい。

 

物理的な歪みだけを問題としないと記したが、では、どういうものを歪みというのか、当然疑問が出て来るはずである。これにはどうしても東洋医学的な概念を用いざるを得ない。基本的に東洋医学は陰陽のバランスが取れている状態を正常とし、この状態のまま、維持できれば不老長寿を実現できると教えている。結論からいうと、陰陽のバランスが崩れ、それが元に戻らない場合、東洋医学的に「歪み」があるとするわけだ。しかし、陰陽のバランスと言っても、あまりに漠然としすぎていて現代人の頭では全く理解できまい。これは施術家として、経験を重ねるうちに、直感的に理解していくものだが、一般人には何のことやらさっぱり分からぬ。私もそうだった。


理解の仕方には二通りあって、知識を積み重ねて、理屈で分かるという理解の仕方と、直感的に、生命的に分かるというそれである。東洋医学は後者の理解の仕方によって、体系付けれたものであるから、文章や言葉で表現しようとすると、まるで異次元の世界に迷い込んだような感じだ。だから、東洋医学の古典など、オカルト本だ!と断じてしまう人もいる。確かに、装飾過多で、モッタイブッタ表現もあるし、大雑把過ぎて、読む者には全然、親切ではない。

 

しかし、直感的に把握したものを表現する場合、ある意味、記述した者と同じ体験を持った者でないと、真の理解は出来ないし、そうした表現も止むを得ないのである。

 

後世、東洋医学も数多くの天才達によって、研究されてきた。勿論、時代の制約もあって、現代には馴染まない用語もあるが、なんとか、概念的に分かりやすく、病の原因(歪み)を掴もうとした。そして、後に続く者にも分かりやすい形の理論を残そうとしたわけである。


その一つが「気・血・水」の理論であろう。体内を巡る三つの「流れ」、即ち「気・血・水」が滞りなく流れている状態が正常であるとした。逆に病とはこの流れが正常ではなくなったときに起きるとしたものである。つまり、陰陽のバランスという漠然としたものから、その実体を体内の流動変化の側面から分かりやすく説明したものと言えよう。陰陽のバランスとは、実は「気・血・水」の流れ如何によって変化するものと捉えたわけである。

 

ここまで来ると、何となく現代人でも分かるような気がしてくると思う。現代医学でも、血流の阻害は生命維持に重大な危機をもたらすものであることは、常識であるし、リンパの流れが阻害されれば、ムクミとなって身体の変調を来たす。


東洋医学では、「血」の流れの阻害を「瘀血」と呼び、「水」の流れの阻害を「痰飲」「水毒」と呼んでいる。しかし、まだ、現代医学との乖離はあるので、そっくり現代医学の知識を当てはめると誤解を生じてしまう。あくまで、類似性に留まるべきである。

 

例えば、「瘀血」にしても、レントゲンなどでは移らないし、CTスキャナーでも検知できない。ところが、証にピタリとあった漢方薬を服すると、ドロドロとした血の塊が不正出血のような形で排泄される(ご婦人の場合)。さらに熟練した施術家なら、腹部を触ることによってそれを手指で触知でき得るのである。


さて、類似性があるだけでも「血」「水」はまだ分かりやすい。問題は「気」である。東洋医学は気の医学と言っても言い過ぎではない。東洋医学の理論的支柱となった「黄帝内経」には実に80数種類もの「気」の使い分けをしている。実はこの「気」の歪みこそ問題となる本質そのものであり、「気」の歪みがあって後、「瘀血」「水毒」となるのである。


「気」とはなんであろうか。これを理解することが一見、遠回りのようでいて、身体の歪みを理解するのに最も役に立つのだが、理屈では中々理解出来ない厄介な概念ではある(現代人の頭では)

つづく・・・

 

つつき・・身体の歪みⅡ
気の歪みとは経絡の歪みである。それが甚だしい場合は実際の物理的歪みとして認識されるのである。指圧界の巨星であった故増永静人師はスジとツボという表現で分かりやすく説明した。

 

人は活動する際、まず、気が動き、気に従い意識(大脳)が働き、それが神経への命令となって筋肉を動かす。そして活動の目的を達成したとき、気が元に戻り、筋肉など肉体的緊張も解ける。そしてまた次の活動に備えるわけだ。

 

ところが、ストレスや不安、心配ごと(現代特有の傾向性)が続くと、活動を終えているのに気が残ってしまう。気が残れば、意識(無意識)もその部分に固着し、スジのツッパリとして残留する。

 

一晩くらいゆっくりと心から熟睡できれば、それもやがて解消され、翌日には元気にリフレッシュされるというわけだ。子供に肩コリが少ないのはストレス等により、気を残すことがないからである(現代はそうでもないようだが)ところが大人になるにつれて気を残したまま次の活動に従事せねばならなくなってくる。さらに無呼吸症候群などという奇病も流行り、本来、休息すべく取るための睡眠が逆に身体に負荷をかけている場合さえある。そうでなくともストレス社会である。昼間の活動の神経の高ぶりをそのまま家庭にまで持ってくる仕事人も多い。ここに気の歪みが固定されてくる理由があるのである。それは最初は自分でも気がつかないくらいのスジのツッパリから始まり、ついには自覚症状がある肩コリ、腰痛、疲労感として認識されてくるわけだ。プロはそれを一発で見抜き、どこのスジに一番ツッパリがあるか、認識できる。認識さえできればその特定のスジ(経絡)を押圧し元に戻すことが可能である。かくして業者のレゾンデートル(存在意義)があるのである。

 

ところがスジのツッパリには2種類あって、パンパンにはっていかにもツッパッテいる状態のものと、力なく奥のほうで抵抗するように弱弱しくツッパッテいる場合とがある。前者を実といい、後者を虚という。故増永師は実は虚によって生まれたものであるから、虚に対する処置(補法)がより本質的な改善になると主張し、またそれを実践し、追従を許さないほどの治療実績を上げたものである。

 

現在流布している指圧等の手技法は実を力任せに責める方法をとっている業者が多いのではないだろか?


指圧等を長い年月受けた続けてきた者の肩、背中の筋肉はまず例外なく常軌を逸しているほど硬くなっている。そして、一時凌ぎにまた施術所へ通う。施術所にはいいお客さんであるが、その人の将来は見えているようなものだ。また、お客もそうしてくれる施術者がよい施術者だと思っているのだから困ったものである。手技法業界はとんでもない名人、達人級の人もいるかと思えば、全くの勉強不足で却ってお客に迎合し害を与えて平然としている施術者もいる。玉石混交で全く不可思議な世界である。

 

翻って足揉み業界はどうであるか。基本的に東洋医学は末端の医学という別称があるくらいであるから、施術ポイントが患部から遠ければ遠いほどベターであるという考え方がある。例えば、肩コリでも直接肩を揉んで解すよりも四肢の末端で解決できればよりベターと考えるわけだ。なぜなら、直接説的な刺激は患部を硬くし、若しくは炎症を与え、誤治の可能性を大きくさせると考えるからであり、それ故、針などは五行学説の母子関係を用い、間接的な刺激をなるべく与えるように工夫されている。従って、足揉みで肩コリという経絡の歪みを治そうと(改善)する試みは東洋医学の原則に適っているのである。


かつて、増永師が全身12経を発見したことは首や肩を硬くしている三焦経や小腸経を足部で操作できることで我々足揉み師に大変な恩恵を与えているのである。
それを知らなければ、重点が特定できず、下手な鉄砲数打ちゃ当たる式の施術であるか、反射区を全部揉んでお茶を濁すかのどちらかであったろう。

患部を含めて操作し気の歪みを治すためには、やはり、虚実を見極め、それに対応する技法を使いわけていくことが、本質的改善になるし、将来、患者の身体をダメージさせることもない。まさに手技法は不老長寿の法として位置付けられてきたが、面目躍如である。

 

ところが、実だけを力任せに責めていく施術を続ければ、将来その患者の寿命を縮め、本末転倒となるだろう。


しかし足部の施術は患部からモットモ離れた部位のツッパリある経絡を強圧するため、虚実に関わらず、ツッパリのある経絡に影響を与え、それを緩ませる。そのことは臨床経験から確信しているのであるから、実感を伴っているのである。


例えば下腿部小腸経(古典経絡図には記載がない)の邪気化した部分を丹念に押圧するだけで、肩コリの70%は解消する。(虚の肩コリの場合は解消までいかなくて改善止まりであるが)下腿部三焦経(これも古典にはない)を同時にやれば、改善率90%くらいにはなる。どうしてもそうはならない人は刺激量が足りないか、場所が違うか。その人のツボが閉じ気味の人である。


いずれにしても、足だけでも身体の歪み(気、経絡)を矯正し得る。さらに、改善を早めたい場合は整体も併用するわけである。

 

(10)治癒反応
治癒する過程において、ある反応が起きることがある。よく「好転反応」という言葉を聞く機会があるだろう。火傷が治る過程において、カサブタみたいなものが出来、その部分がやたら痒くなるというのも好転反応の一つである。つまり、生体の持つ自然な反応の一つというわけだ。


東洋医学において、気の歪みを問題とするということは前述した(雑感9)とおりであるが、この歪みが元に戻ろうとするとき、生体は大きく動揺することがある。これを東洋医学では「瞑眩」(メンケン、若しくはメイゲンと読む)という。字面のとおり好転反応のような優しさはない。(字義を解釈すれば目がくらみ、目の前が真っ暗になるという意味である)東洋医学史上、正に天才の1人であった江戸時代の漢方医、吉益東洞は「瞑眩出ずんば治さじ」(瞑眩反応が起きないような治療法では病気を治すことはできない)とまで言ったくらいであるから、東洋医学においては、日常的なものとして捉えていたようである。

 

特に吉益東洞は強い瀉剤を中心に処方し、瞑眩反応を引き起こすことによって難病を治すことを得意としていたので、その反応は強いものであったようだ。


こんな伝説が残っている。
ある商家の娘が重い病に罹り、東洞が呼ばれた。東洞はいつものとおり、強い瀉剤を中心に処方し、娘に服用させた。ところが東洞が帰った後、その娘の呼吸が止まり、脈まで触れなくなった。その商家は大騒ぎである(そりゃ、そうだろうな)

 

近くの医者を呼び、診させたところ、やはり臨終だという。当然、殺した(?)張本人である東洞をもう一度呼び、診させた。東洞は診察しながら「訳あってのことだから、もう少し様子をみなさい」と言って帰って行った。果たして、娘は数時間後、息を吹き返し、その病もすっかり治り、健康体になったそうだ。

 

これが史実であるかどうかは分からない。しかし、瞑眩反応というものをよく現しているものではなかろうか。瞑眩反応も強いものであれば仮死状態にまでなり得るものだということだ。半端なものではない。短時間で治そうとすればするほど、強い瞑眩が起きる可能性があるということだ。

 

興味深いことに東洋医学ではないが、同じ自然療法であるオステオパシーの伝説的な治療家、フルフォード博士もこうした反応を「10トントラックに轢かれるくらいの・・」という表現をしている。洋の東西を問わず、より本質的な歪みを改善する場合、起こりうる現象だということを認識しているわけだ。

 

私もこの瞑眩反応にはよく出くわす。しかし、足部施術を主体にすると、強い瞑眩はあまり出ないでのある。せいぜい身体がだるいのが2~3日続いたり、発熱したり、やたら眠気がさしたり、抱えている症状が若干強く出たりである。(ちょっと予測つかない現象もあるが)それでも、受療した側とすれば、却って悪くなったのではないかと思うわけだから、事前の説明が重要である。


困ったことにこの反応は必ず起きるというものではない。また、何回目の施術に起きるかも予測できない。瞑眩が起きる確率は軽いものも含めて10~15%位ではなかろうか。東洞に比べれば穏やかなものであるが、人を信用しない現代においては、本当はよい兆候なのに信じてくれないので、この現象は厄介ではある。しかし、生体の持つ自然な治癒反応であるからどうしようもない。

 

逆に「瞑眩反応」は便利な言葉でもあるので悪用する輩もいるにはいる。例えば、もみ返しという現象はほとんどの場合、瞑眩ではない。単に刺激が強すぎて筋肉を傷めた場合のほうが多いのである。それを瞑眩と強弁する業者もいるわけだ。瞑眩であるか、誤治であるか判断するには深い洞察力を必要とするので、半端な知識や経験で軽々しくは言ってはいけないと思うのであるが・・・

 

強い瞑眩を防ぐ一つの方法は、やはり足部のツボを開いてあげるということだ(特に足心)、さらに頭部のツボも開けば(特に百会)、瞑眩はある程度防げる。それでも起きたときはしょうがない。事前の説明を信じてくれるかどうか。それを説明した私という人物を信用に足る人物と判断してくれるかどうかである。結局、施術というのは全人格的に行うものであって、ここに至っては小手先の技術ではなくなる所以でもある。

 

(11)頭蓋仙骨療法
ご承知かと思うがオステオパシー手技のことである。最近、施術家の方もよくお見えになって、この話題がよく出る。もはや伝説となったと言ってもよいフルフォード博士の著作や、そのフルフォード博士を紹介したワイル博士の著作がベストセラーになった影響が大である。何を隠そう私もワイル博士の著書「癒す心・治す力」に20ページに渡ってフルフォード流のオステオパシー手技が紹介されており、その著作を読んで始めて知った次第である。この本は初版が1995年のことであるから、今から9年位前のことである。ある意味、衝撃的ではあった。何故なら、「真人は踵をもって呼吸す」という中国古典のたった一節からその技法を体系化しようとしていた矢先であったからだ。呼吸とは何度か触れているが、気の呼吸のことである。オステオパシーでは頭蓋骨の癒合した骨組みが微細運動を行い、その動きが250ミクロンの範囲であるとしている。その原動力は右脳と左脳の膨張、収縮によって引き起こされているものとだとしているのである。そしてそのリズミックな動きがより生命の本来的な動きであり、呼吸のリズムと似ているところから一次呼吸と名付けている。ここでそれについての詳しい説明は避けたい。先に挙げた著作を未だ読んでいない方は是非、読んで頂きたいものである。

 

さて、気の呼吸と一次呼吸とは言葉は違っても同じ概念を表わしている。特にフルフォード理論は驚くほど東洋医学的な発想で人体を捉えている。したがって、読んでいて全く違和感がない。言葉の使い方が違うだけである。


当然重要視するのは頭蓋骨の微細運動の回復である。つまり気の呼吸を回復させるという意味に捉えても良いだろう。私は足部の気の呼吸(足心呼吸)を手技によって回復させようとしていたわけだから、フルフォード博士の存在を知ったときのインパクトはご想像できるだろう。


そこで、頭蓋骨の動きを探ろうとした。たまたま長年足を中心に人の身体に触れてきたので微細運動の感知は容易であった。また、東洋的なツボを利用し、骨組みそのものを動かし、一次呼吸を回復させるのもそれほど難しいことではないということも分かった。

 

ところがである。次に受療者が来られたときには、また元に戻ってしまっているのである。


ここに至って、フルフォード博士の偉大さがよく分かった。フルフォード博士の技法はほとんど力を入れず、頭をそっと包み込み、ファ~ッとしたあるかないかの圧力で頭部を揺らす。ほとんど物理的な力を使わず、気の力でダイレクトに右脳、左脳に影響を与えているわけだ。骨組みの動きは右脳と左脳の膨張、収縮によって起きるわけだから、その原因たる根源に働きかけていることになるのである。しかも、フルフォード博士は手の極性理論を基にし、左脳に反応するのは右手、右脳に反応するのは左手であると述べている。

 

ここでこのやり方を真似するには三つの問題点があることが分かった。
一つは右手で左脳側側頭部、左手で右脳側側頭部に手をあてがうためには対面で行わなければならないということ。これは術者が相手の正面に位置しなければならないということである。真正面でかつ、息がかかるほど接近した状態で施術を行わねばならない。


二つ目は最初の問題点にも通じるのだが、時間がかかるということである。フルフォード博士が5分で回復できるものが、我々だと数倍かかる(初めて取り組むなら5~6倍の時間はみた方がよい、つまり25分~30分くらいだ)。5分間くらいなら対面で、息がかかるほど密着した状態での施術でもさほど異和感を感じさせることはないだろう。しかし30分となると話は別である。限られた時間の施術のなかでこれは厳しい。フルフォード博士は半世紀にも渡り、一日3時間の瞑想を欠かしたことがない人である。いきなり、そのレベルの気を放射することは無理というものではないか。


三つ目は受療者の満足の問題である。日本人はツボ感覚が発達しているため、ツボに入ってこないと満足を覚えない(若しくは律動的なマッサージ感覚)。フワ~ッとした感覚で30分も続けて、「この先生、何やってんのかしら!」なんて思われたら、効くものも効かなくなってしまう。

 

このような問題点があって悩んでしまったのである。フルフォード流の良さを失わず、三つの問題点を解決する方法。悩める日々が続いたが、やはり、考え続けると良いことがあるものだ。ある日、ブレイクスルーする日が来た。発想の転換である。左右いっぺんにやろうとする以上この問題から逃れられない。ということなら片方づつやればいいではないか。これなら、受療者を横向きに寝せたとき、施術者は上方に位置することができる。さらに左側頭部を右手で押さえられる。そして左手は後頭部のツボに入れられるわけだ(左側を上にして寝かせた場合。逆向きだと手も逆になる)左手の人差し指、若しくは中指でツボに入れながら、右手は左脳をイメージしながら気を入れていく、そして時々、骨組みを揺さぶり、可動させる。見た目はフルフォード流とは似ても似つかないが、原理的には他のオステオパシー手技よりもずっとフルフォード的であり、より根源的であると思う。
このようにして作った頭部の一次呼吸の回復術。最近の整体講習にも取り入れているが、概ね好評のようである。なにより施術者の感性と気が高まる。物理的に頭蓋骨の動きはどんなに大きくても250ミクロンを超えることはないが、生体はそれを増幅して捉えることができる。施術者自身の感情に訴えてかけてくるものである。これは頭部のみならず、足も手もすべての身体の部位において生命力の発露として感じられる感覚である。これをキャッチできる感性は施術者にとって重要かつ不可欠な資質ではないかと思う。

 

※筆者注:2011年現在、上述の方法は取り入れていない

 

 

  (12)療法の普遍化
療法の普遍化というのは大問題である。もともと、療法、療術というのは個人技であるから、同じ療法、療術を行っている者であっても個人よってその成果は違ってくる。これは当然のことだ。同じ整形外科医であっても個々のドクターによって技量が全く違うのと同じである。


この個人に属する問題、即ち技量については個々人の努力や資質の問題であるから、詳述する必要もないし、雑感で取り上げる問題でもない。


しかし、その療法そのものが持つ特性や体系が理解し難い、若しくは凡人が及ぶところではないほどに高度なものであって、修得困難であれば、個人の問題を超えたところに問題が発生する。


例えば、経絡治療は基本的に証診断を行わなければ、経絡治療とは言えない。証診断を行うためには経絡を見る心が必要になる。言葉でいえば簡単であるが、実際、そのようなことができるには極めて特殊な感性と多大な努力が必要であろう。

 

普通の者が最大限の努力によって身につくものと、特殊な者が最大限の努力によって身につくものとでは、天地雲泥の差が生まれる。

 

普遍化とは特殊な者のみが会得できるものではなく、普通の者でも最大限の努力をすることによって身につくものということである。でなければ、ほんとんどの者にとってその療法、療術が絵に描いた餅になってしまうであろう。


療術の創始者は常人にはおよびもつかないほどの情熱と努力、そして天賦の才を持ち合わせ、さらに生涯をかけて追求していった結果として、一つの療術体系を作っていった。では、次にその意志をつぎ創始者と同じことできる者が育つ可能性はどれくらいあるのであろうか。

 

実はこの問題は東洋医学が抱える本質的問題なのである。

 

明治8年に正式に漢方医制度が廃止された。この年は日本の医療が国策として西洋医学を正式に採用したという記念(?)すべき年であったのである。


日本において医師の資格を得るには、すべからく西洋医学を学ばねばならないこととなった。漢方をいくら勉強しても医師にはなれないというそれまでとは180度違う大転換点だったわけだ。何故、日本はそれまで営々と築き上げてきた漢方を捨て、西洋医学にシフトしたのであろうか?

 

西洋文明に追いつき、追い越すため、古いものは全部捨てるという考えに基づいたものであったしたら、あまりに短絡的であり、思慮を欠いた決断だったと言わざるを得ない。

 

では西洋医学の方が効き目があり、漢方では治せない例がたくさんあったのだろうか?


事実は逆であった。当時の西洋医学は抗生物質に代表される画期的な薬剤が開発されていたわけではない。したがって当時の死病と恐れられていた労咳(結核)には無力であったし、麻酔剤も充分ではなく、外科手術もこんにちでは想像もできないくらいお粗末であったのである。


しかも、西洋医学と漢方との直接対決を行っている。
同じような病状や病態をもつ患者を統計学的に有意な数だけ集め、それを2群にわけて、一方は漢方のみの治療、一方は西洋医学のみの治療を行った。どちらのグループが経過良好であるかという実験である。(こんにちでは考えられない人権無視の実験だが、当時は行えたのである)。結果は圧倒的に漢方有利と出た。
それでもである。それでも漢方を捨てた。何故か?

 

漢方治療を行った医師は当然ながら、名人、達人級の人たちであるが、この人たちは何故治ったか説明できなかった。経験と勘によって証を決定し、方剤を選び、取穴したわけだ。「何故、そのような方法を選んだのか?」という質問に対して「直感です」としか言いようがないのである。「証が見える、経絡が見えたからだ」という答えでは?マークが三つくらい質問者の頭を駆け巡るだろう。治療法の決定に至るプロセスがあまりにも明確ではなく、合理性を欠くと判断された。

 

実はこれこそが東洋医学の本質なのである。特別な資質の持ち主が長い修行を経て会得する直感知が支えているところの医学なのである。


最初、この当時の判断は短絡的過ぎるし、政府の浅薄な考え方によってなされた痛恨の判断ミスであると思っていた。漢方廃止論者の急先鋒が森鴎外であることを知って、彼の小説さえ評価できななくなったほどである。


しかし、冷静に考えてみれば、確かに漢方は直感の医学であって、それは医学というより医術と呼んだほうが適切なくらいである(大塚敬節氏)


一国の国民の健康問題は政府の責任である。当然、良質の医師を養成する義務も発生する。近代国家としては当然であろう。

 

このとき、一部の名人級の医師のみが行える医療を選択する余地はあったのだろうか・・・

漢方医を養成するカリキュラムなどない。ひとりの名医のもとに修行のため弟子入りして、その者が資質豊かで、かつ不断の努力をする者であったら、やがて師と同等の技量も得よう。しかし、こんなシステムでは3000万人(当時)の国民が等しく医療を受ける機会を得るほどに良医を育成できるだろうか?


医術としては当時未熟であっても、合理性とカリキュラムが整備された西洋医学を選んだ政府の方針は止むを得なかったのではないか・・・むしろ、既得権益を断固排除した明治人の気骨さえ見て取れるのである。俯瞰する位置によって物事が違って見える。療法の普遍化ということを考えた場合、明治8年の出来事はある意味仕方がなかったのかもしれないと昨今思う次第である。

 

西洋医学一辺倒となった日本の医療は、いち早く、西洋の革新的薬剤や技術を取り入れる環境が整い、無用な流派の争いなどからは無縁でいられた。勿論、東京帝大医学部を頂点するヒエラルキーが形成され、白い巨塔的な弊害はあったろうが、各流派が各流儀の優位性を唱えて覇を競うような漢方的混乱がなく、むしろ一定の秩序を保つ上でいい面さえあったと思える。

 

時代は移り変わり、幾多の変遷を経て、こんにちに至った。
こんにち的な発想で医療を見れば、西洋医学は客観性、再現性を重んじるあまり、病人を診ないで病気を診るという弊害が叫ばれている。そこにあるのは患者不在の学問であっても、患者を全人的に診るという治療学の発想がないとさえ言われている。

 

例えば、明らかに患者は苦痛を訴え、苦悩しているのに、検査上異常が見当たらないとして帰されたなどという例など枚挙に暇がない。

 

東洋医学的な発想、即ち患者の苦痛を最優先するという考え方が再度見直されてきている。しかし、西洋医学もそのような状況を指をくわえて見ているわけではない。心ある医師等は東洋的な発想の治療法を取り入れ、仮に使う用語は東洋医学とは違っても身体を診る思想において、東洋的な治療法に少しづつではあるが近づいてきているようだ。トリガーポイントの発想で治療を行う医師などは極めて東洋的だと思う。

 

足証整体は個人的な技術の追求から始ったもので、足裏に経絡を見るというほとんど大それた野望に近い目標をたて個人技を追求していったものである。それが出来た今、かつて漢方が辿った道、即ち、個人技過ぎて修得困難なものであるという事態に陥っている。


西洋医学が問題点を認識して少しずつ修正を加えているように、足証整体もまた個人技に走ることなく、体系化され、整備された形の伝授が必要になってきた。足証整体コースを作ったのもその現われである。時代から時代へと継承させるために療法の普遍化は極めて重要なものと認識している次第である。

 

(13)発勁(はっけい)
人の身体というのは「力」で押すと反発される。「力」を入れているのに、全然、圧が浸透していかないのだ。この時、施術者はフラストレーション、不全感を感じるものだ。「勁」を使った経験のない施術者には分からないのかも知れぬが。

 

少なくとも「勁」を使う施術者にとっては力による反発は絶え難い不全感を感じさせる。

 

ふと気がつくと、勁を使うのを忘れ、力を使ってしまっていることもある。疲れて集中力がなくなったときなど、特にそうだ。そのときはまた基本にもどり、体勢を整え、新たな気持ちで再開することになる。


野球でも一流の選手でさえ、スランプに陥ることがある。この時、彼らの対処法は調子が良かった頃のビデオをみたりして現在のフォームとの違いをチェックしながら、なんとかスランプ脱出を図ろうとする。実は施術者にもスランプがある。いくら勁を発しようと努力しても微妙にズレがあって、うまく、いかないのである。あらゆるところから、チェックする。角度、位置、体勢、体重の乗せ方・・それでもうまくいかない。一体、どうしてしまったのか?もう施術ができないのではないか?などと不安がよぎるが、そんな心情に関係なく、待ったなしにお客様が来院するわけだ。好きで選んだ仕事とはいえ、こんなときは本当に施術がつらいし、情けないし、申し訳ない思いで一杯である。

 

ところがあるとき、また元に戻ってできるようになる。そんなことを何度、繰り返したことか・・やがて、そのようなことを何度も何度も繰り返しているうちに本当のコツというものが分かってくる。技術的なことをクリアーしていれば、大概の原因は気持ちの問題なのだ。気持ちに少しでも焦りがあれば、微妙な筋肉の緊張を招き、脱力できない。それは本当に微妙なものだと思う。意識に上らないほど、微妙な緊張である。それが勁を発するのを邪魔する。全く、なんという不思議な身体の構造であることか。

 

お客様は鈍い人ばかりではない。勿論、ツボが閉じていて、ミソもクソも一緒に感じる人もいるが、鋭い人は鋭い。施術者の焦りや功名心など、簡単に見抜いてしまう感性の鋭い人もいるわけで、そういう人にあたり、勁を使えないときの施術ははどうしようもなく情けないものだ。

 

ところで、よく色んな施術にかかる人で、ツボが潰れている人がいる。「力」の施術を受けすぎた一群の人たちである。「力」で刺激されるのを身体で覚えこんでいるので、このような人達は強い「力」を与えないと満足しない。また、それに応えようとする一群の施術達もいて、需給のバランスが保たれているのかもしれない。

 

お客「やっぱり、これくらいの刺激がないと効かないね~」
施術者「そうですよね、他のは単なるリラクゼーションですから」


などという会話が交わされ、施術者はその客が満足するという事実によって、正しいことをしていると思ってしまう。また、自分が一番上手い施術者だと勘違いする。


しかし一方で別のサロンでは・・
お客「気持ちいいね~、○○式は痛くてダメだよ」
施術者「痛いと緊張してリラックスできませんからね」
かくして、ここのサロンの施術者はこの方法が一番だと思いこんでしまう。

 

人によって感受性が違うということを体験的に分かっている施術者なり、経営者は昨今のお客様第一主義のマーケティングに影響されてか、好みに合わせろと訳知り顔で言う。

 

こんなことが日常的に行われているのが所謂、癒しの世界の現状ではないだろうか。


いずれも発勁という発想がないのだが、若し知れば、世界観が変るはずだ。


何故、手技なのかを考えてみれば分かるのではないだろうか。手で行うのは気持ちが良いという一言で片付けられるが、「気持ち良い」という言葉の中にはその段階がほとんど無限に存在するはずだ。

 

そもそも、「気持ちよさ」にはベクトルの方向が2極あって、一極にはアッパー系、対極にはダウン系である。
一般にアッパー系快感は興奮的な気持ち良さで、ダウン系快感はくつろぎ的な気持ち良さとされている。麻薬でいえば、前者は覚せい剤やコカインであり、後者はヘロインである。


昔から、ヘロインは麻薬の王と言われているが、なにもしないで、ただ黙って座って(或いは寝て)いるだけで、気持ちが良いという贅沢な作用があるからである。勿論、その分、禁断症状や習慣性が一番強いのだが・・(麻薬などやったことはありませんぞ、念のため)

 

麻薬の話は蛇足である。言いたかったのは、手技の気持ち良さというのは基本的にダウン系であるということであり、運動と興奮を伴うセックスの気持ち良さに代表されるアッパー系快感とは対極にあるということだ。癒しとは疲れた身体と心を休息させて、エネルギーを蓄積し、明日への活力を得るためのものであるはずである。しからば、何故、わざわざ強い「力」で揉み、押し、擦るのか。一時的な交感緊張による活力の湧出は癒しではない。かといって、リラクゼーションのみでは、効かない。ここに施術者のジレンマがあるとするなら、発勁はそのジレンマを解消する唯一の手段とも言えるのである。

 

刺激を与えるのではなく、浸透させるという発想そのものに意義がある。発勁は位置、角度のいずれのズレによってもなされない。位置と角度が決って、力を入れずに力を入れる。


なんという矛盾した表現だろうか。発勁という概念を持っていなくとも、その感じをよく分かっている人もいる。そのような人達の話を注意深く聞いていると、実に様々な表現方法をとって説明しようとしている。曰く、「手で押すな!腰で押せ!」「腰を入れろ!」曰く、「体重を使え!」「体重の乗せろ!」。習う方もまた、感性が様々であるから、腰を入れるというキーワードで理解する者もいれば、体重移動のキーワードで理解する者もいて、切り口はかなり幅広いのである。ともあれ、発勁が出来るようにしたいのだが、教える側の感性と教わる側の感性が一致しないと、中々理解が難しいものである。ほとんど、本能的にそれが出来る者もいるので、教える側は単に上手い人と、下手な人に分けて差別化して、それ以上深く考えようとしないことがほとんどである。


教える側が個人的に出来たとしても、自分ができる動きを分析して、その人に合わせて、表現を変え、切り口を変えながら、体得して貰わねばならない。単に上手い、下手で括ってはならないと思う。あくまでも、その教わる人に合わせた、或いは理解できる言葉を選び、表現しなければならないのである。したがって、個人によって理解のさせ方が異なるわけだ。そういうわけだから、一般論として文章化できない性質のものである。昔は、こういうものは秘伝とか、奥義に属するもので教えては貰えなかったものである。術は教わるものではなく、盗むものである。、という格言が伝わっているくらいだから・・・ある意味、そうなのだが、現代においては全てがサービス業になっていて、昔のように、徒弟制度をとることができない。また、ほとんど収入がなく、修行時代を過ごせる環境にもない時代だ。学校の役割というのは自分で体得するにはあまりにも膨大な時間と労力がかかるので、その時間を節約するために、時間をお金で買うみたいなところがあって、自得していくことに意義を見出した昔の時代とは異なる。如何にそれを体得させていくか、これが全ての教育事業者に課された命題とも言えるのである。

 

長く、施術することと、教えることに携わってきて、発勁にもまた、深化の段階があって、あるときは、逆戻りしたり、体得したことをすっかり忘れてしまったり・・等を経験してきた。であるから、その時々の自分の段階に合わせた教え方をしてみたりした。たまたま、感の良い生徒さんに教えたところ、よく体現できるので教え方に自信を持ったと思ったら、ある種の生徒さんにはそれが全く通じなくて往生したり、実に様々な経験をしてきたのである。教えるということは実に奥が深い。これは自分で自分の技術を深化させるのに匹敵するほどである。逆に言うと、自分の技術を深化させないと、表現方法のバリエーションが狭まるのではないかと思う。


教え方についても試行錯誤を繰り返してきたわけだが、発勁の本質を掴ませようと、必死だったわけだ。勁の概念を使わず、発勁の本質を掴ませるという作業は、自身の挑戦にも似て、難行苦行の連続であった。一時期などは「教えること拒否症候群」にかかったのではないかと思ったくらいである。どうやっても、力が抜けない一群の人たちもいて、そのときは、あるゆる切り口で説明するのだが、どうやっても体的に理解できないのである。ある意味、身体感覚が低下している人たちなのだが、これには、往生してしまう。しかし、真面目にやっている者は遅かれ、早かれ、体得していくものだから、人間というのは、健常者であれば、さほど差異はないのかもしれない。どんな人でも早い段階で勁の感覚を掴ませるということが明生館塾の最大の使命かな、と思う昨今である。

 

勁にも様々なレベルがあるので、一度、コツを掴んだら、自分自身で深化していかねばならないことは勿論だ。そのスタートラインに立てるかどうか。これは全面的に明生館塾の責任と認識している。中々、出来なくて、出来た瞬間の喜びを見るのも楽しい。この時ばかりは教えていて本当によかったと、素直に思えるときでもある。

あるレベルまでくると、身体のどこを触っても勁を発することができるので、このレベルまで少なくとも来てほしい。修行はそれから始るのである。勁を使えれば、圧を浸透させる(補法)のは造作もないし、組織拘束の除去、エネルギーの解放(瀉法)もまた、もっと簡単である。そうすると、虚実補瀉という東洋医学の真髄も手技において体現できることになる。やはり、勁の概念を掴むということが、最初の方法論となるのではないか。
最近、痛切に感じている問題でもあり、課題だと思っている。

 

(14)頭蓋の動き
何度もHP上で記述しているが、頭蓋には間違いなく、リズミックな動きがあって、その原動力は脳自体のエネルギーによってなされている。つまり、左脳、右脳の膨張、収縮である。実にオステオパシーの真骨頂はこの頭蓋のリズミックな動きを回復させることにあるのではないかと思う。(勿論、それ以外にも様々なテクニックがあるにせよ)

 

人の身体はどう考えてもリズム体である。誰でもわかる動きは、例えば、心臓、肺である。
心臓は拍動というリズムを刻むし、肺は呼吸というリズムを刻む。


呼吸は自分の意識でその深さを変えることができるが、心臓は余程のヨガの達人でもない限り自分でそのリズムを変えることはできない。


仮に心房細動という病気にかかったとしよう(不整脈)。心臓が微細な痙攣を起こして、リズミックな動きができなくなるものだ。これにかかったからといって、ただちに重大な危機に陥るわけではない。自覚さえない者もいるくらいだ。しかし、将来、血栓のリスクが増大し、脳梗塞や心筋梗塞を誘発する。侮れないものである。


このように少なくとも、自覚できる、若しくは自覚できなくとも、検査でわかるリズム障害はまだいい。早めに手を打てるからである。しかし、脳のリズミックな動きが阻害されている場合はどうであろうか。心臓と違って、その動きさえ、自覚できない。しかし、脳もまた、間違いなくリズムを刻んでいるのである。その動きが阻害されていると、心臓よりももっとタイムラグがあるが、身体に重大な影響を及ぼすのである。

 

左脳と右脳の膨張と収縮がキチンとなされていれば、頭蓋はその影響で微細な動きを行う。
頭蓋が動くという説はすでに証明されていて、疑念を挟む余地はない。それを感じ、そして、動きを回復させるという技法が難しいわけだ。


オステオパシーは日本では正式な医療として認められていない。したがって、オステオパシー的手技を身につけたとしても、あくまで日本では民間療法の扱いになってしまう。
であるから、オステオパシーを身につけるべく海外に留学し、資格を取得し、帰国したとしても、リフレと同じ民間療法扱いである。そこで、心ある人達が日本でも、アメリカと同じように、その技術を見つけることができるように、本国と同じカリキュラムで行うスクールも設立されている。少しは負担の少ないものになって、良いことではないかと思う。


が、それでも、4年以上の歳月と4~5百万円の費用がかかってしまう。こうして、取得したしてもやはり民間療法扱いである。本国まで行かないで済むというメリットはあるものの、それでも費用は民間療法扱いの割りには高すぎて、普通の者には負担が過ぎるだろう。かなり、特殊な人達がいくスクールということになってしまうのである。

 

オステオパシーには様々なテクニックがあるということは前に述べたとおりである。そのテクニックを駆使するには解剖、生理のちゃんとした知識が必要であろうし、基礎医学全般の知識も必要である。しかし、頭蓋のリズミック運動を回復させるテクニック以外はほとんど東洋的手技で代用できるものである。東洋的叡智をバカにはできないのである。用語が違うのと、多少のアプローチの違いがあるだけだ。そもそも人間が行う手技は、人間である以上、かなり似た技法も出て来る。これは真似したというのではなく、必然的にそのようになってしまうのである。であるから、東洋的な整体によって、オステオパシーの目的とするところを達成することができるわけだ。


しかし、頭蓋の微細運動の回復だけはどうも、東洋的な伝統手技の中には似たようなものがない。特にフルフォード博士が完成させた頭蓋療法は、類例をみない。もともと、フルフォード博士は特殊能力者と言ってもいいくらいであるから、D.O(ドクター オブ オステオパシー)の間でも出来るものは少ない。だから、オステにおいてもやり方にかなり違いが出て来るのである。

 

他の雑感の項でも述べているので、詳しく説明するのは割愛するが、今、頭蓋の操作が楽しくて仕方がない。施術後の頭蓋の大きさは少ない人で0.5センチ、多い人で1センチほど、頭蓋周囲が広がる。それだけ、脳のリズミックな動きが抑制されていたということだ。


これが、後々、如何に悪影響を及ぼすことになるか。自覚症状がないだけに恐ろしい。ことに幼少の頃から、そのような状態の者は途中で何らかの、症状を抱えることになるし、ある年齢に達すれば、大病さえ引き起こす原因となる。今、来られているクライアントの90%以上はそのような人たちである。


頭蓋の動きさえ正常になれば、どんな症状も軽減されるというものではない。理由は2つあって、一つは長い間、抑制が続いた者はそう簡単には正常に戻らないからである。つまり、一時的に動きが回復してもまた元に戻るということだ。ある年齢を超えると(一概に幾つとは言えないが)、実に頑固な固着があって、往生する。フルフォード博士の影響を受けて、手技を主体に行っているD.Oは主に小児科医として活躍しているとのことだが、故なきことではないのである。若ければ若いほど、固着が進んでいなくて、改善が早いということだ。


もう一つの理由は頭蓋の動きの抑制だけが、現症状を呈しているわけではないということである。その他に身体の各所にエネルギーブロック(組織拘束)が発生していて、それを解放させてやらねばならない。大人は特に身体の分節化が進んでいて、部分のエネルギーブロックが起きている。大概は各関節部に拘束があるのだが、大きい関節だけでも。膝関節、股関節、肩関節・・がある。これら関節のブロックを解放するという作業もまた必要なのである。また、背中や首のリンパ流の改善もまた不可欠の場合が多い。時間がかかるということである。手技とは本来、時間のかかるものであるが、それをやり続けると、こちらが疲れてしまう。

 

そこで、パーカッションハンマーなど、器械に代用させるということになるが、日本人の場合、治療とはいっても、そこには何らかの癒しを求めてくるので、器械を使う施術者には抵抗がある。中々、難しい問題である。 

 

今のところ、全て手で行うやり方をとっているが、いずれパーカッションハンマーを使うにしても、手の感覚を磨くためにも全て手技で行うことは、施術家として通らねばならない通過儀式ではないかと思う次第である。(フルフォード博士は90歳まで現役の治療家であったが、患者の年齢制限を設けたことと、パーカッションハンマーの恩恵が大である。つまり、自身のエネルギーを節約したわけだ)。私も60歳になったら考えてみよう。

 

(15)オステオパシー的に捉えた足底療法
生命、知性の座である脳の働きの抑制は、素人が考えてもマズイのではないかと思うだろう。その通りである。脳の働きの抑制は脳の膨張と収縮によって分かり、外に現われてくる現象としては、頭蓋の微細な動きとして感知することができる。


連動する動きとしては仙尾骨がある。これも何度も記述しているので触れないが、頭蓋と違って、仙尾骨は脳を保護する骨格ではない。にもかかわらず、頭蓋との連動によって、動きがある。仙尾骨の動きの原動力はなんであろうか。実はこれには諸説ある。微細な動きを認めるにしても、頭蓋との連動的な動きを否定するD.Oもいるくらいである。


何故、動くかという理由については未だ未解明の部分があるが、何故?という部分が未解明なのであって、仙尾骨のリズミックな動きについて否定するD.Oは少数派である。


それでも懐疑的なD.Oがいるくらいであるから、足部の微細運動についてはほとんどのD.Oは懐疑的であろう。

 

まず、何故、仙尾骨のリズミックな動きがなされるのかだが、医学的な説明と、伝統医学的な説明と両方によって説明できる。前者は骨盤内臓器の固有運動が仙尾骨に伝わり、その動きがなされるというものである。骨盤内臓器の固有運動は知られているもので腸の蠕動運動が有名であるが、それだけではない。臓器そのものに固有の動きがあって、それは、子宮にも前立腺にも卵巣にも、膀胱にもある。生きているということはリズミックなハーモニイを奏でているわけだから、動きのない臓器を持つ者は死人だけだ。


そのような臓器の固有運動が仙尾骨に反映され、リズムを紡ぎだす。そこで何故、脳との連動が起きるのかということだか、これは、共鳴、共振現象に他あるまい。むしろバラバラなリズムを刻むということのほうが理解し難いものである。赤の他人でさえ、共振が起きる。例えば、ルームメイトの生理周期が一致してくるというのは有名な話である。ましや、同一人においてバラバラなリズムを刻むなどということは考えられない。人の身体は調和し、バランスされてこその健康であるから、健康体においてはそのリズムは必ず一致してくるはずである。


後者は少し、理解し難いと思うが、東洋的生体エネルギー理論だと思って聞いて頂きたい。仙尾骨にはヨガでいうところのチャクラがある。これは霊的なエネルギーの眠っている場所とされる。同じく、眉間にも、頭頂にもチャクラがある。普通は眠っている状態であって、これを活性させるのが、ヨガの修行の目的となるわけだ。現在、流行っているヨガはエクササイズヨガとなって、だれでもできる利点はあるが、基本的には単なるストレッチ運動と変らない。気功が普及しすぎて単なる型による体操になってしまったのと同じ轍を踏もうとしている。まあ、人のビジネスにケチをつける必要もないが・・

 

話が横道にそれてしまった。要するに、ヨガというのはチャクラを目覚めさせることが目的なのである。身体を柔らかくしたり、スリムな身体を作るのであれば、真向法などで充分であろうし、実践しやすいものだ。


このチャクラは仙尾骨で発生させて、上昇させていき、やがて眉間、頭頂へと達する。この時、チャクラが開く、つまりクンダリーニという霊的エネルギーが活性せねばならないのである。これは相当に修行を積まねばできぬことである。しかし、だれでも持っているエネルギーであるため、活性しないまでも、その胎動は誰にでもあるわけだ。この胎動こそが、仙尾骨の微細な動きの原動力となる、と説明される。実にオステオパシーとヨガは深い関係があったのである。仙尾骨のチャクラの胎動、眉間、頭頂のチャクラの胎動、これらの関係に共振現象が働かないという理由はない。

 

さて、足部の微細運動であるが、これは、あるということを証明するのは難しい。私はあるということを知っているのである。知っているということと、証明するということは別問題である。足はその周辺に臓器があるわけでもないし、足裏のチャクラなどというのは一般的ではないだろう。かろうじて、古典の教えるところでは、何度も記述したが「真人は踵をもって呼吸す」という言葉が残されている。呼吸とは動きである。勿論、気の呼吸、オステオパシーでいうところの一次呼吸のことであるが、一次呼吸とは動きを伴っていたので、名付けたわけだ。であるなら、踵(足裏)で呼吸す、ということが本当であれば、動きを伴わなければならない。う~ん、これでは仮説にもならぬか・・


ただし、足底部と頭頂部は直接的なつながりがある。これは身体力学的に証明されている。


重力線が頭頂から真っ直ぐに足底部、足心よりやや後方に下りてきていて、その反発する重力力線が頭頂から抜ける。勿論、脳幹、小脳や延髄部を通り、大脳を貫通する。脳の膨張、収縮を生み出すエネルギーの一つに、実は、脳を貫通する、反発する重力力線が関与しているのではないかというのが、私の推論であった。仏足跡における足心の構図なども足の一次呼吸の状況証拠となるだろう。あくまで、状況証拠ではあるが・・

 

足底療法を長くやってきて、足が脳に与える影響が大であるということを感じてきた。これは、ながく、足底療法に取り組んできた施術家なら同意して頂けるものと思う。


ただ、同意する施術家であっても、その理由については反射区刺激による反射が起きたという解釈しかしていないと思う。しかし、私は、足心、若しは若干その下の部分で一番、脳に与える影響が大であると認識している。頭部の反射区(拇趾)よりもである。これは不眠に効くという「失眠穴」がこのあたりにあるという事実からも分かるのではないだろうか。であるならば、足底押圧の意義の一つには歪んで重力線が頭頂を通らない、つまり、脳の膨張と収縮が起きづらい一群の人たちに、人工的な重力線を与え、頭蓋の動きをよくするということではないかと思うのである。(勿論、足を揉む意義はそれだけではなく、複数の理由があるのだが、それについては対談等を参照して頂きたい)

 

リラクゼーションリフレが流行る前には“足揉みは痛いが効く”というのが一般的であった。これは期せずして、脳の膨張、収縮を促進させ、頭蓋の一次呼吸を回復していたというのが理由の一つであろうと思う。仮にフリクション系施術であっても、リラクゼーション程度の施術より、余程、影響を与えていたと推察できるのである。
単純推圧による深い深い按圧で安定させるほうが、もっと影響を与えることできるのは言うまでもないが。

 

そして、足自体にも一次呼吸による“動き”がある。これは何度も言うように、現時点では証明できぬ。そのような装置を開発して計測すれば、一番手っ取り早いのだが、全くの器械音痴でどのようにそんな装置を作ればいいのか、見当もつかない。外注するにも財力に問題がある。1930年代、頭蓋が動くとした理論が発表され、それが、証明されたのは1970年代であった。実に40年もかかっている。今はテクノロジーが発達して、お金さえあれば装置を作ることも可能であるが、そんなことにお金を出す人はいまい。


しかし、足は間違いなく、膨張と収縮を繰り返して、リズミックな動きを行っているのである。これは予想ではなく、信じているのでもなく、知っているのだ。心の眼でみればそれがはっきりと分かる。

 

長い経験を持つリフレクソロジストなら、足を見た、或いは、触った瞬間に感じる精気のない足の感覚をご存知だろう。それは、硬い、柔らかい、冷たい、暖かいという、触覚を超えたもの、つまり直感的に感じるものである。極端な話、命が尽きようとしている入院患者の足のようなものである。身内として、そのような足に触った経験のある者もいよう。


その者が重体で、足に精気を感じなければ、余命はいくばくもない。逆に精気を感じれば、まだ持つ。かつて、知り合いのご婦人が、身内の看病を続け、薬石効なく亡くなった。その方がシミジミと言っていた。「人は足から死ぬ」と・・蓋し名言である。勿論、医学的には人は脳から死ぬのであるが、そのご婦人は身内の方の足を毎日、毎日、サスリ続けたわけで、その実感が言わせたものだろう。反射区図表の一大勢力を持つに至ったヘディ・マザフレ式は、自身が看護師であった経験からのものであった。常に患者と接しうる立場だったわけだ。恐らく、足と寿命の関係を直感的に感じたあたりから、独自の解釈をしていったに違いない。この反射区図表は理論的な投影図とかなり異なる。実際の臓器の位置関係と異なる配置をしているのであるが、経験知を優先させたものと思われる。他のリフレ研究者の反射区図表より、臓器の配当の仕方が論理的ではないのである。だから、信用できる。机上で考える者より、多くの病人と接する機会を得ていた者の方が確かな目を持つ。現場のことは現場に聞かなければ、分からないのだ。


また、横道にそれてしまった。ともあれ、若し、直感的におかしいと思ったなら、それは呼吸していない足であり、リズミックな膨張と収縮が行われていない足である。


熱心に施術をしていると、やがて、変化を感じる。その変化は人によって捉え方は違うものの、抑制されていた気の呼吸の回復であり、ブロックされていたエネルギーの解放である。

 

(16) OA病
本来、百話で取り上げる話題なのかも知れぬが、特定の誰というわけではなく、あくまでも一般論として述べてみたかったので、雑感で取り上げることにした。


ともかく、このOA病というかOA症候群とも言うべきものか・・これが恐ろしい程までに増えている現状ではなかろうか。ご同業に方には同意して頂けるものと思う。その他、ディスプレイを見つづけることによって起きるVD症候群やら頸肩腕症候群やら、その事例はやたら多い。


パソコンを始めとするOA機器が人の身体を少しづつ蝕んでいるような気がしてならない。このまま行けば一体どうなってしまうのだろうか・・同様の感想を持つ施術家は多いだろう。

 

一連の癒しブームとパソコンの普及とは比例関係にあるような気がしていたが、若し、そうだとすると、この先、さらに増えることがあっても減るということはないだろう。余程の技術革新がない限り・・・

 

私事で恐縮だが、私はこのようなまとまった文章を書く(パソコンキーを叩いているのだが)とき、基本的に施術はしない。勿論、メールの短い返信くらいはするが、まとまった文章を作る作業と施術とを組み合わせてスケジュールを組まないのである。主に、休日などを利用してパソコンに向かう。であるから、あまり、影響を感じていなかった。ところが、先日、夕方からの施術しか予約が入っておらず、ただボーッとしていても仕方ないので、百話その他のストック原稿を書くことにした。文章作成というのはノリである。ノラないときは全く書けないのだが、ノッテくると、時間も忘れて集中してしまう。ふと気が付くと、2時間や3時間などあっという間である。その日は実に6時間近く、パソコンに向かっていた。クライアントが来る直前まで向かっていたのである。

 

初めての経験であったが、実に驚くべきことが起こったのである。力が入らないのだ。全くといっていいほど力が入らない。施術は力でするものではない。これは何度も述べているし、生徒にも教えている。事実、一日、10時間近く、施術することもあるが、そのことによって、力が落ちて来たりすることはないし、やろうと思えば、最後に行う施術でもその日最初に行う施術よりも力強くすることはなんの造作もないわけだ。だからこそ、施術は力で行うものではない、「勁」を発することである、と言ってきたのである。

 

とは言っても、必要最小限の力は必要である。歩くにも筋力が必要なように―病床で長く臥せっていると、筋力が衰え、歩くこともままならないだろう―ちょうどそのような感じで手指が震えてしまったのである。勁を発するのに必要な基本的な筋力がなくなっているわけだ。一体、どうしてしまったのだろう?少し、大げさかも知れぬが、初めての経験でパニクってしまった。

 

私のHPを見るくらいであるから、読者はOリングテストというのはご存知だと思う。片手でOKサインのように人指し指と親指でリングを作り、もう片方の手にテストしたいモノを持つ。そうしておいて、他人にリング状にした指を引き離してもらう。このとき、テストの対象になったモノが身体に合うものであれば、指は堅く閉ざされ、引き離されることはない。或いは引き離されたとしても、協力者が相当に力を入れぬと、引き離されない。


逆に身体に合わないモノを持ったとき、いとも簡単に引き離されてしまう、というものだ。


暗示効果云々という人もいるので目隠しテストをするが、それでも全く同じ結果になる。米国で活躍している大村博士という方が発見した原理なのでその頭文字をとってOリングテストというらしい。指でOの字を作るからOリングというわけではないのだそうだ。つまり、原理的なことを言っているのである。それは、物質からある種の波動が出ていて、それを人間の身体は敏感に感じ取り、微妙に筋力に影響を与え、合わない物質の波動は筋力を弱めるという原理のことを言っているわけだ。今の科学では完全に解明できぬものであるが、実際、様々なモノで試した結果、これは信用に足るものではないかと思う。(足の施術クリームも試したが、やはり安い市販のハンドクリームは成績が悪い。私は施術時にクリーム等は使わないので、半分遊び感覚ではあったが、スタッフの追試も全く同じ結果であった。施術にクリーム、パウダー、オイル等を使用する施術者は考慮したほうがいいのではないか。勿論、高ければいいというものでもないだろうがー輸入品で高価なクリームも非常に成績の悪いものがあったー自分で試すことをお薦めする)

 

それはさて置き、施術時に力が入らず、多少パニックに陥ったとき、このOリングテストを思い出した。実に不思議な感覚なのだ。パソコン操作で腕に負担がかかり単に力が入らなかっただけだろう、という向きもあるかもしれない。しかし、腕の疲労感が全くない。それに、パソコン操作(単に原稿を打ち続けるだけだが)は慣れていない動作でもない。ワープロ時代から考えると、もう8年もキーボードを使って文章を打っている。公表、非公表を含め、延べにすると原稿用紙換算で数千枚にもなろうか。一応、余計な力が入らずスムーズに打てるつもりだ。それに自分で文章を考え、打っていくわけだから、打つ作業自体は休み、休みである。だから、腕の単純疲労だというのは考えづらいのだ。


だとすれば、何なのか?大村原理のような気がしてならない。パソコンから出る電磁波様なある種の波動が筋力を弱めたとしか思えないのである。施術をするまで、まるで分からなかった、これほど力が入らないとは・・意識に上ってくるほどの筋力の減衰ではないのである。しかし、いざやろうとすると、まるで病人の萎えた足のように力が入らない。


読者諸氏よ、だとすれば恐ろしいことだとは思わないだろうか?
私はたまたま、施術という微妙な筋バランスを必要とする行為によって分かったわけだが、知らずに筋力の減衰が起きている者がほとんどではあるまいか。それが、所謂、OA病の原因の一つと考えていいのではないか。勿論、姿勢や目の酷使も原因のひとつであろう。しかし根本にはある種の波動を浴びての結果ではなかろうか。

 

合気道の創始者にして天才武道家と言われた植芝盛平翁は電車に乗るのを極端に嫌がったという。彼の壮絶な修行と天性の才能によって獲得した身体感覚は、電車の中の電磁波を微妙な筋肉のアンバランス感として感じ取っていたに違いない。一種の不全感としてである。電磁波は巷に溢れかえっているものであるが、特にOA機器の操作は身体の身近で行うものだけに影響が強い。今、植芝翁が生きていれば、パソコンの前に行くのを、電車同様嫌がるに違いない。きっとインターネットもしないだろう。


こうした表現は誤解を生むだろうから、言っておきたい。あくまで長時間の操作が問題だということだ。人の身体には浄化力があるので、それほど長い時間でなければ影響はかなり限定的だと思う。事実、私は休日、一日一杯パソコンに向かっていても、翌日の施術には影響がないし、ちゃんと力が入る。今回はパソコン操作のあと、すぐに施術をすることによって、分かったことなのである。

 

しかし、毎日、仕事として1日何時間もパソコンに向かわざるを得ない人達はかなり影響を受けているのだと思う。施術家ではないので筋力の減衰という直接的な形で分からないだけで、別の不調として感じられる。それがOA病の正体であると思う。筋力の減衰として感じられるということは、骨格筋はいうに及ばず、内臓もまた平滑筋というリッパな筋肉の一種であるから、内臓に支障をきたす場合もあるだろう。いずれにせよ、なんらかの形で影響を受け、不調をかこっているわけだ。


さて、どうしたものか・・・今後、益々、このテの人たちが増えていくことは述べた通りである。その場、楽にすることは可能だし、東洋医学的には邪気を抜くという操作で有害な電磁波は抜けていく。しかし、また仕事に戻り、OA機器に囲まれ、パソコンに向かうなら同じことの繰り返しとなろう。現代ではそれを避けて通れないのである。仕事を辞めるというのも、糧がなくなるわけだから、現実的ではない。やはり、ある一定期毎に施術に通って貰わねばならないようだ。溜まりすぎて爆発する前に・・癒しの仕事は今後、益々、必要不可欠であって、決してなくなるものではないということが分かる。食事を取らないという人がいないのと同じで、定期的な施術が生活の中に組み込まれる日も来るような気がする。自分の健康は自分で守るといっても防ぎようのない環境に置かれているのが現代という社会である。よきホームドクターを見つけておくのも必要だが、よき施術家を見つけておく必要のある社会になってきたようだ。

 

肩がコリ、首がコル。背中が張って、腰が痛い。冷え性で、便秘がちだ・・どことは特定できないが、調子がよくない。これらは全て未病である。未病を放っておくと必ず大病を呼ぶ。現代社会は若い人や子供まで、これら未病を起こさせる環境に置く。この人達が中年以降に達したとき、どうなるのであろうか。年金だけの問題ではない。医療保険も遠からず破綻する。医師会の強い反対がなければ、個人負担5割というのはアッサリと決まるだろう。かといって、アメリカのように医療保険を民間に移行させたら、低所得者は保険料を払いきれず、医療を受けられない。そうすれば平均余命が下がる。ただでさえ、少子化である。かつての経済大国の昔日の面影はなく、一部の富裕層と大多数の貧困層に分かれ、ごく普通の国となろう。普通の国になるというのはこういうことなのだ。私も30年もすれば、平均寿命から言えば死ぬ年頃だ。日本が衰退したあとの姿は見ないで済むギリギリの年齢である。しかし、子供や若い人達にはまだまだ未来がある。この人達につらい思いさせたなら、それは今の大人の責任である。一介の施術者風情が何を大それたことを、と思うかもしれない。


しかし、少なくとも自分の立場で自分のできることを全うしたいと真摯に願ってきた。技を磨くのも、人に教えるのも自分のためだけではない。縁した人は全て少なくとも健康寿命を延ばして、なるべく医者の世話にならぬようにとの気持ちであった。その人の将来のコストを引き下げようと努力しているのである。他の施術者も同じ気持ちであってほしいと切に願う。

 

OA病の話から飛躍した話になってしまった。仕事の環境が精神的なストレスのみならず、物理的に身体に悪影響を及ぼし得る時代だということを言いたかった。子供の頃、テレビゲームなどなかったし、社会に出てもコンピューターは特殊な道具であった。今はごく普通の環境として回りにある。パソコンをいじらないで済む仕事はかなり限定的なものだ。これが亡国を増長していないと誰が言えるのか。日々、現場にいてそう思う次第である。

 

(17)Q&A
このHPで一番更新が遅れていたのがQ&Aであろう。
実際は実に多くの質問が寄せられ、その質問に個別に答えてきた。
しかし、質問は個別的で極めて特殊状況下にあるものが多い。このような質問に答えるとき、当然、極めて個別的な回答をせざるを得ない。これはあまり一般的ではないし、そのようなクライアントに遭遇するのは一生に一回あるかどうかでもある。また、なんとも返答に困ってしまう質問もあった。だが、その質問の中には、分解するとかなり普遍性のあるものもあるし、日頃、考えて来た類の質問もあったのである。そこで、多数の質問から、個別的特殊性を取り除き、より普遍性のある項目をピックアップしながら、質問を再構成して、回答を一般論に置き換え作ってみた次第である。であるから、本来は一つの質問がHP上では二つの質問になっている場合もあるし、複数の質問が一つに代表されている場合もある。だから、質問の最後に(要旨)と記しているのである。是非、ご了解頂きたい。


習ったばかりでは覚えるのが精一杯で、何が分からないのかさえ分からないという状況が多いのではなかろうか。しかし、実践を行うにあたって、疑問にぶちあったってくる。このとき、曖昧なままにすれば、ずっと曖昧なままである。適切な時期に質問はしてみるものだ。

 

こんな話を読んだことがある。ある大学である学生がどうしようもない質問をしてきたのだそうだ。それは突飛なものであったり、本質的なものではなかったり、あるいは授業を聞いていれば、質問するまでもなく分かる事柄であったり・・教授は段々、不機嫌になって、そんなのはテキストを読みなさい、と語気強く叱ったこともあったということだ。ところが、その生徒はメゲルことなく、相変わらず授業が終了後に質問しにいった。教授はもう諦めて、いかに的外れな質問でも熱心であることには変りはないと思って、それなりに対応してやったのだそうである。それからそんなことが一年位続いた。さて、一年後、そのクダラナイ質問する生徒はどうなったか。なんと、実に的を得た別人のような質問をするようになっていたとのことだ。まるで教授と専攻が同じである同僚のような鋭い質問を放つようになったという。大学をギリギリで受かったのか、コネ入学で入ったのかと思われていたデキの悪い生徒は質問を続けることによって、学年が終わるころにはクラスでもトップクラスの成績になっていて、卒業時にはなんと首席だったという。その生徒は社会に出ても、指導者層の一員として、活躍したそうである(今現在も)

 

この話は参考にならないだろうか?
今更こんな質問して恥ずかしいとか。基本的な事項過ぎてとても質問できない、とか思っていないだろうか。私に習った人は私に聞くしかないだろう(なんと私に習ったことのない人が質問することもあるぞ)。こんな質問はクダラナイと思って蔑むようなことは絶対しない。勿論、あまりに個別過ぎて、答えられない場合もあるだろう。わたしとて全てを知っているわけではない。しかし、分かる範囲で答えてやろうと思う。ただし、忙しすぎて、すぐには返信できないこともある。遅れても必ず、回答しよう。遠慮なく質問すべきだ。そして、その質問の中にある種の普遍性が含まれていれば、質問を再構成してHPで公開する。今後、このQ&Aは実に多岐に渡る問題を取り上げることになると思う。結構、面白いものになっていくに違いない。あと数十回分位のネタはあるが、ネタは多ければ多いほどいいに決っている。
(結構、大変だけどね)

 

(18)勉強会1
毎月、第三水曜日に行うので、「三水会」と称して、勉強会を行っている。今月で9回目になった。参加する人がいる限り、続いていくことと思う。前回までは、筋肉関係及びトリガーポイント。それも一応、終了したので、今回からは脊椎間の同期現象(メリック・チャート)を行った。今回はそれだけではなく、私の専門外中の専門外であるアロマクリームの作り方を参加者が専門にしていたので、お願いして講習してもらった。

 

和気あいあいと参加者達が作るところを見て、こういうモノ作りの楽しさを知った次第である。さて、何故、このような自然派クリームの作り方を取り上げたかというと、足の施術にクリームが必要だからである。今の私は施術自体が単純推圧であり、安定持続圧のみの押圧なので、クリームは使わない。しかし、いきなり、このような施術で全編通すことは難しいので、深く入れることを基本にしながらも、若干のフリクションを入れるというのが最初の手技となる。そうすると、必然的に摩擦から皮膚を守る為にクリームかオイルが必要だ。オイルを使うとなると、オイルマッサージということになってしまうので、やはり、クリームが一番使い勝手がいい。そうであれば、当然、身体に良いもの、最低でも害がないものが良いに決っている。

 

もう20年近く前になろうか。中国で漢方医(正式には中医という)をしていた先生と話していたときのことだ。何気にその先生が薬用人参(朝鮮人参のこと、何故か中国人は朝鮮人参とは言わない)の加工工場の話をした。曰く、そこで働いている女工さん達はとても健康的で風邪一つ引かない、しかも肌がきれい、だと・・おそらく、加工の際に飛ぶ、薬用人参の微粉末を微小吸い込むからだろうと、言っていた。薬用人参は上薬中の上薬。少量を毎日、服用することによって、不老長寿を得られるとしている、歴史上、もっとも有名な生薬である。なるほど、さもありなん、と思ったものである。


私の生まれ故郷の近くにミンクの毛皮加工工場があった。ミンクの皮を素手で取り扱い、素手でなめしていくらしい。ここには一つの伝説があって、そこで働く女工さん達は皆、手がスベスベでキレイであると・・実際、その通りなのだが、毛皮を毎日毎日、素手で触ることによって、微量のミンク油が手に染み込んで、そのような現象が起きているらしい。

別に薬用人参やミンク油の宣伝をしてるわけではない。


施術者にとってはクリームが必需品であり、しかも毎日毎日使うものであるならば、薬用人参加工場の女工さんのように、ミンク毛皮の加工場の女工さんのように、最低でも手がキレイになり、身体に良いものを使わないと損だ、ということを言いたかった。


合成界面活性剤や化学的な防腐剤、酸化防止剤、鉱物油、着色料、合成香料などは抜かねばならないだろう。さらに肌から身体に浸透し、よい影響を与えるものであれば、ベストである。実際、市販のものでそれを実現しようとすると、コストの問題でバカ高くなる。一日何人ものクライアントに対して使うものであるから、女性がへそくりで買う高級化粧品を湯水の如く使うに等しい。現実には無理だろう。


そこで、自分で作ったらどうか・・精選した原料を手に入れ、自分でクリームを作るのである。そんな発想から、この度の勉強会のテーマになった。今回の講師は、そのようなクリームをアッサリと作って、自分のサロンで使っているということだったので、是非ともお願いした次第である。クリームを自分で作るなんて、ちょっと想像しづらいものだったが、これが実に簡単で楽しい。勿論、化学的な合成物は一切入っていないし、アロマエッセンスも自分の好みで入れられる。ベースオイルは麻油(ヘンプ)で乳化剤を使わず、ミツロウで固形化する。麻油は浸透力が高いということで、今、注目されているオイルである。ミツロウもまた、昔からあるものであるが、それ自体に有効成分が含まれ、再認識されているそうな。アロマエッセンスについては言うまでもない。アロマテラピストなら、エッセンスに関して深い知識も必要であろうが、基本的な注意事項を知るだけで、クリーム程度なら、OKである。コストも材料費だけで済むので、高コストは避けられる。

 

身体に良いものを微量、毎日、摂り続けるというのは、先の薬用人参、ミンク油の例をだすまでもなく、重要なことである。企業はコスト削減、金にならぬものは皆、削るという姿勢だから、このような贅沢は個人開業者だけに許されたささやかな報酬であろう。

 

参加者は早速、自分のサロンで使いはじめた方も多い。お客様も良い反応を示してくれるとのこと。敏感な方は「暖かい感じがする」とも、「とても安らぐ」とも言うらしい。何よりも施術者自身が癒されるという。なるほど、身体は敏感だ。

 

(19)勉強会2
脊椎間の同期現象については前の項で少し触れた。Q&Aでも触れているかもしれない。
要するにある脊椎骨が歪むと、ある脊椎骨が同期して歪むという法則のことである。
この法則を知っているととても便利である。症状から、その原因を探っていくこともできるし、複合的な症状を分解して考えることもできる。勿論、それだけが原因だということはないのだが、手ががりは多いに越したことはない。

 

第一頚椎と第五腰椎の同期現象は肯けるシーンに遭遇することが多い。第一頚椎が歪むと脳の血流量への影響は避けられない。一方、第五腰椎の歪みは下肢、特にくるぶし周りの腫れとして出やすい。頭的な問題を抱えていて、くるぶしがハッキリしていない状態の者は間違いなく、第一頚椎―第五腰椎症候群だ。或いは、蓄膿症気味で、坐骨神経痛持ちは第二頚椎―第四腰椎症候群である。このように、大雑把にあたりをつけることができる。若し、本当にそれが原因なら、施術は格段に効く方向へと向かう。トリガー理論とともに、この原理(メリック・チャート)は施術家が理解して置かねばならない重要な理屈の一つであろう。ということで勉強会の題材にしたわけである。今、ピンとこない人も将来、必ず役に立つ。リフレクソロジストにとっても東洋医学的な考え方とともに、このような理論を身につけると、飛躍的に身体の理解は増す。


例えば、下肢がムクミ気味で首肩のコリを強く訴えるかクライアントが来たとする。
術者「首、僧帽筋の反射区が堅く(柔らかく)、問題がありそうです」
お客「そうなんですか・・で、楽になるのかしら・・」
術者「勿論です。少し通って頂ければ」
お客「日常、自分で出来ることや、注意すべき点は?」
術者「自分で自分の足を揉んで下さい。特にこことここ」
お客「わかりました・?」


なんという説得力のないカウンセリングであるかことか。反射区をみて、どこそこに問題がありそうだ、などというのは、誰でも言える。この場合、第一頚椎と第五腰椎の歪みが訴を招いていると指摘し、それがそのまま足に出ている旨を述べたとしたらどうだろう。

 

ぼってりとした足と、首の可動域の狭さだけで、指摘できるものだ。反射区を精査する必要もないし、逆に反射区にこだわり過ぎると、こんな単純なことを見落としてしまう危険さえある(忠実に反射区に投影されていない場合もあるわけだ)。日常の注意点としても、枕が合わないと(頚椎)、むくみも(腰椎)も解消できないということをアドバイスできるし、重いものを不自然な姿勢で持ったり、足を組んだりすれば、首や肩のコリが増悪されるということもアドバイスできるだろう。一つの原理を知れば、臨床で使い、尚それをカウンセリングでも応用できる。また、応用が応用を生み、長くやっていけば独自の施術感が醸成され、余人を持って替え難しというレベルにもなろう。経験と勘も重要だが、やはり、既存の原理を身につけたところからスタートすることが、早道である。そのことを踏まえることによって初めて、経験がモノを言い、勘の冴えが的確な手技を選択する原動力となると思う。


いつも思うことだが、リフレサロンの中には、暇なときは外でチラシ配りをやり、施術は施術で教えられたとおり、時間内に終えるべく、黙々、淡々と行って、カウンセリングもなく、終わったら、お客にトットと帰ってもらい、今の施術の反省もなく、間置かずに次の施術に移り、自身へのフィードバックもヘッタクレないという仕事環境のところがある。


こういうところで働いている人達は仕事が面白いのだろうか?身体に対する新しい知見を知る喜び、実践の中で自分の読みどおりに身体が変ったりする現象を得た時の感動・・それらもなく、肉体労働と接客技術だけで、この仕事はなりたっていると思っているのだろうか。経営者からしてみれば、個人による技術の差異はないほうがいいに決っている。誰であろうと、同じような技術で、同じ時間内で、同じことをやっていくというのが、その会社のノウハウであり、会社を円滑に運営する秘訣でもあろう。しかし、働いている個人からすれば、ロボットのように同じようなことを繰り返さざるを得ない単調な単純労働を強制されているに過ぎない。施術は知的労働なのである。どうも改善が今ひとつだ、どうも今一歩、入りきらない、それらをいかに解決するか、知恵を使い、知識を駆使し、考える。考え続ける。考える為の材料がなくなったら、それを得るべく、それらに関連すると思われる本を読み漁る。そして一つの回答を得る・・・このようなサイクルの中に喜びを見出す種類の仕事だと思う。


勉強会では、考える為の材料を提供している。施術の現場では予期せぬ人たちが来るだろう。初めてお目にかかるような症状を持つ人もいよう。一つの原理の応用で済む場合もあるし、全く新しい視点が必要な場合もある。施術者自身にたくさんのポケットがあれば、それだけ多くの応用もできるし、複眼的な思考もできよう。そうなればしめたもの。経験と相まって加速的に対応力がついてくる。また、自信も湧いてくるというものだ。

 

※筆者注:勉強会(三水会)は現在も続いている。丸6年が経過し7年目に突入している(2011年現在)

 

(20)施術百話第16話に関連して
百話の第16でツボ―スイッチ論を少し述べた。
ツボというのは本来特定できるものではない。万人に通用するルールはないのである(フルフォード博士)。では、特定できないツボをどう探すのか。症状によってツボが決定されるなら、こんな簡単なことはない。まる暗記してしまえば良いからだ。ところが、人によって訴に至る原因は様々であるし、身体の状態も違う。であるから、機械的な暗記では役に立たないということになる。ツボの名前と位置についてよく知っている人がプロなのではない。素人が趣味で行うにはいいが、施術家として、人の身体を扱う資格はないだろう。
(鍼灸はそれが最初になるだろうが、今は手技について述べている)

 

クライアント自身が自分のツボのことを良く知っていて、そこ、ここ、を押されると、例えようもなく気持ち良い、と言ってくれるなら、それを目安に探すこともできよう。しかし、大概はクライアント自身も知らないのだ。押されて初めて、そこ、ここ、が効くとか気持ち良いとかが分かるケースがほとんどである。


ツボ―スイッチ論で言えば、仮に一箇所そのような場所が分かったとしても、複数あると、もうクライアント自身に指摘させるのは絶望的だ。人によって違うツボを押圧箇所を変えて押し続けると何千箇所にもなる。一日がかりの話になってしまう。しかし、よくしたもので、いくら人によって違うといっても、身体の基本構造は同じであって、共通の原理もまた存在する。基本的な構造や共通を原理を頭にいれて置くと、さほど、外れないで済むものだ。まず、共通の原理として言えるのは、スイッチの入るツボというのは響きが伴うということだ。気持ち良いというのも同じで、仮に意識上に上がらなくとも、必ず、響きが伴っている。ただし、気持ち良いと表現される言葉の中には様々な要素があるので、効くという感覚を伴った気持ち良さのことであると限定すべきではあるが。

 

さて、この響きというのは、直接的には神経を通じて感じる。勿論、敏感な体質の持ち主なら、細胞間伝達、つまり経絡的響きをも感じるが、多数派とは言えないだろう。もともと神経は経絡がある働きに特化し、進化したものとも言える。多細胞生物において、細胞間伝達のみで情報をやりとりするとなると、時間がかかりすぎる。それはそれとして、ある情報を大量に迅速にやりとりしなければ、生き残っていけないという必要性から生まれたのである。細胞間伝達ではなくて一個の細胞が長く伸び、直接的に情報のやりとりをするようになったわけだ。さらにそれらを統御する必要性から、神経末端が肥大して脳が生まれた。司令塔の役割である。さらに、脳への過剰負担を軽減するため、各所に限定的ではあるが、脳の役割の一端を担う部分も発達した。「民間にできることは民間に」という小泉純一郎的発想が生命にはあったのかもしれない。代表的なのは腹腔神経叢であろう。人間なら誰でも持つ基本構造である。これを大きく逸脱しているのは最早、人間とは呼べない。宇宙人ならそうかもしれないが・・(宇宙人の施術は残念ながらやったことがないので断言できない)

 

閑話休題
各サーバーと各パソコンを繋ぐ光ファイバー網が構築されたようなものである。迅速かつ大量の情報のやりとりが可能になった。ただ、インターネットとの違いは大元で統御するマザーコンピューターがあるということである。つまり、脳があるということだ。(ネットにはマザーコンピューターがない)

 

さて、少なくとも神経的に響きが起きやすいところは、各所の神経叢の近くである。例えば腕神経叢、頸神経叢、腰神経叢、仙骨神経叢・・etc。しかも、そこから出て、神経が表面に浮き上がってくる箇所がある程度特定できる。個人による差異もあるが、その差異はかなり限定的なものである。実はこの部分が狭義の意味での「響き」が起きやすい部位でもある。例えば、肩コリや五十肩で正中神経が圧迫され、正常でなければ(自覚がない場合がほとんど)、腕神経叢への押圧によって腕や肘にビンビンと響きまくるし、肩甲背神経とも繋がっているので肩甲骨(大菱形筋、肩甲挙筋)へ響いていくこともある。このように神経を伝わる響きはクライアントにとっては自覚しやすいものである。そして、広範な作用を及ぼしていく(筋、筋膜拘束や自律神経など。そして脳へ)。このような箇所をピックアップしていくと、決して無制限の中から選択しなくとも良いのである。

 

近年、鍼によって、このような部位を取穴しようとする試みがあるようだが、直接、神経に刺すというのは如何なものか。さらに電流を流すという話も聞くが、後に神経本来の伝達力を減衰させるのではないかと危惧する。やはり、このような影響力が強い箇所は最も自然な方法、つまり手技によって行うのが一番安全だと思う。

 

神経叢、若しくはその近辺においてスイッチを入れるツボが発見されるのだが、足裏はどうであろうか。浅学のためか、足裏神経叢というのはついぞ聞いたことがない。にも関わらず足裏においても響きが起きる。腹部までなら、かなりの人が感じるし、中には脳天まで響くという人までいる。ここに至ると神経的な説明だけでは無理がある。経絡的な発想が必要だろう。しかし、足裏は面積が狭い、土踏まずを中心に考えれば、満遍なく押してもさほど時間はかからないのが利点である。全身を対象に捜すよりはずっと効率的である。


足裏はロックを解除する暗証番号のうちの一つは必ず入っている。

 

(21)カウンターストレイン
1954年、オステオパスであるローレンス・ジョン―ズ博士は実に興味深い発見をした。

 

どのような方法をもってしても、良くならない腰痛の患者の来院がキッカケである。整形外科的な処置でも、カイロプラクティック的な治療にも全く応答しない症例であったそうである。当時、ジョーズ博士は42歳、治療家として脂のノリキッタ時期であった。当然、他の療法で良くならない患者に対してはある種の自信があり、考えられる限りの身につけた手技、またはその他の治療法を試みたと言っている。ところがその患者は全く改善が見られない。痛みのための逃避的姿勢(腰痛者が痛みを庇うため、不自然な姿勢で立ち、歩く、というよく見かけるパターン)さえ、少しも改善しなかった。

 

患者は痛みのため、継続して数分以上睡眠さえとれない状態なのである。ジョーンズ博士は自らの敗北を認めざるを得なかった。治療家にとって、これほど悲しいことはない。まるで自分が無価値に思えてくるからである。しかし、主訴は改善しないものの、少しでも休息を取って貰いたい、という気持ちから、患者が一番、痛みの少ない、楽な姿勢をとるべく、患者とともにその姿勢を探っていった。この格好が一番楽だ、という姿勢を見出した時、それは今まで、見たこともないような摩訶不思議な格好であったという。その姿勢なら、わずかでも休息がとれて睡眠不足を補えるのではないだろうか。そんな気持ちで約20分ほど、放置しておいたのだそうだ。さて、20分後、うたた寝していた患者のところへ行き、家でも、そのような姿勢でいることを薦めようとした。そして患者がベッドから降りて立ち上がってみると驚くべき事態が生じていた。逃避的な姿勢が改善されていたのである。当然、痛みは大幅に改善され、ほとんど苦にならない状態になっているという。患者は大喜び、ジョーンズ博士は唖然とした。何かが起きたに違いない。ジョーンズ博士は熟練した治療家でもあり、研究家でもある。それに至る理由があり、再現性と普遍性があるはずだという信念のもとに、以降、実に40年以上にわたり、研究していった。それがカウンター・ストレインという技法である。

 

様々な試行錯誤の中で、ジョーンズ博士は苦痛が軽減される姿勢と苦痛箇所とは離れた部位に圧痛点があることを発見した。そして、その姿勢(ポジション)になるよう術者が患者に対して誘導し、かつ圧痛点を軽く押さえておくと1954年に起こった状況が再現されることが分かった。もっとも効率的な圧の保持時間は90秒であることも突き止めた。こうして、カウンター・ストレインという技法は実用に耐えうるものに進化し、ジョーンズ博士は治療家達に自身の体験を共有してもらうために啓蒙活動に力を注ぐようになったのである。

 

アメリカにおいて、手技法を主な治療手段にしている治療家はオステオパスは勿論のこと、数から言えば、カイロプラクターのほうが圧倒的に多い。彼らの手段は主に椎骨移動なのであるが、その限界もまた知っていた。カウンター・ストレインの存在を知ったとき、そんな方法でホントに改善されるのか?という疑心暗鬼的な気持ちが恐らくはあったであろう。しかし、徐々に取り入れる者が現われ、追試的な実証が積み重なってきた。今では、カイロプラクターの間でもポジショナル・リリースという名で多くの術者が採用するに至っている。勿論、オステオパシーでもそのままカウンター・ストレインという名で必須技法として認知されている。

 

さて、ここで興味深い事実がある。ジョーンズ博士が「圧痛点」と呼んだもの(ポジショナル・リリースではテンダーポイントと呼ぶ)の部位である。これは所謂、鍼でいうところの正穴とは必ずしも一致しない。むしろ、人によって違うランダムな「阿是穴」(あぜけつ)と同じ概念であろう。しかし、阿是穴という言葉が残されている以上、そのことに古代中国人は気づいていたものと思われる。ただ、日本の鍼灸の権威であった代田文誌博士は「阿是穴について述べると体系が乱雑になるため、正穴をもって治療して頂きたい」旨のことを述べているように鍼で阿是穴を用いるのは、鍼の性格上(皮膚を突き通し、刺激量が多い為、禁穴も多い)、指導者として、あまり薦められなかったのではないかと思われる。多分、名人が使う穴群だろう。

 

このように古くは千年単位で遡れるほど昔から、個人特有のポイントのことは知られていた。トリガー理論でいうところの「トリガーポイント」も全く阿是穴としかいいようのないものである。また、増永師が指摘している「虚のコリ」というのも、フルフォード博士がいう「エネルギーブロック」、若しくは「組織拘束」というのも同じものだと思う。いずれも筋・筋膜、または腱、靭帯上のわずかな拘束状態が全体に多大な影響を及ぼす可能性に基づいた理論、技法である。


カウンター・ストレインにしても、ポジショナル・リリースにしても、経絡指圧にしても、トリガーポイント理論にしても、その拘束部位を除去するにさいして、決して強圧ではなく、安定的な持続圧を用いるのも共通している。ただし、フルフォード博士だけは安定圧に拘らず、揺らし手、バイブレーション的な手技を用いることもある。これは術者の好みによるかと思われる。部位さえ的確なら、揺らし手であっても拘束は除去されると経験から言えるが、安定圧のほうが、リアルタイムで緩んでくるのが分かるので、実感が得やすいものだ。しかし、強圧しないということは絶対的な共通事項ではある。

 

阿是穴にしても、虚のコリにしても、トリガー・ポイントにしてもその部位を発見するのは一種の名人芸が要求される。まるでポイントの違うところを押さえても、特に日本人がそうであるが、「何やってんだ、コイツは!」みたいなところがあって、まともにポイントを探す努力ができない。日本の場合、手技法家は法的に純粋な治療系の立場を確立できない環境にあるというのも一因かもしれない。そこにはどうしても慰安的な要素が要求される。そうした意味でもある程度、効くという感じを与えるため、それなりの圧力で対応せねばならないだろう。それはそれでいいとして、術者自身がそれで良いと納得してしまうことが、残念なのである。

 

多少の上手い下手によって差別化し、これで良いとしてしまうのは全く進歩がない。個人固有のポイントを探る努力をすべきであろう。恐らくここがそのクラインアントの固有ポイントである、と予測したならば、微妙に姿勢の変更を加えてみるとか。そのことによって、手指に伝わってくる感覚の変化を追う。そういう絶え間ない努力の末に技術が練磨していく。半年前と同じレベルでいては全く論外である、というくらいの意識を持って取り組むべきであろう。

 

ワークブックなどを参考にしても構わないが、大事なのは手指に感じる定義不能な感覚を養うことである。様々な技術書に書かれている「経験を待つより他ない」とはこうしたことである。

 

日本において、手技法は大きく2つに分類される。一つはカウンター・ストレインの流れを汲むポジション系。極端な流儀では、クライアントにある姿勢をとらせたまま、術者はほとんど手を加えないというものもある。カウンター・ストレインの原型そのままと言えるだろう。無痛なんとか整体という名称を持つものに多い。もう一つは刺激系。自律神経などに影響を与えるには刺激閾に達しなければならない。その刺激閾を意識した方法論で、実に多様なやり方がある。既存の手技はほとんどこのカテゴリーに入ってくるものだ。

 

進化したカウンター・ストレイン、ポジショナル・リリースは上記2つの方法の折衷型と言ってもいいかもしれない。刺激は準刺激閾値くらいの軽い圧で、ある姿勢に誘導する。両方の操作がシナジー効果を生み出す。


椎骨移動のアジャスターが時代遅れになりつつある現在、カウンター・ストレイン的な発想は重要である。そのような発想から独自の方法論を生み出している施術家も出てきた。すこしづづではあるが、手技の世界も進歩しているようだ。

 

(22)足のカウンターストレイン
足だけを対象にしない手技法でもその多くは、足の重要性に言及している。そして、足の操作もワークブックなどに記載されている。カウンター・ストレインしかり、ポジショナル・リリースしかり・・etc。しかし、足ばかりを長年やってきた私としては、それらの技法に物足らなさを感じている。勿論、なんちゃってリフレは論外だ。


リフレ以外の手技における足の操作は基本的にクライアントをうつ伏せにする。うつ伏せがダメだという気はないが、呼吸器や心臓に負担をかけるうつ伏せはなるべく避けたいところだ。しかし、仰向けで行うということになると、実は熟練が必要である。


仰向けで投げ出されたままの足というのは基本的に不安定である。圧がブレてしまう可能性が強い。そこで、ブレないようにしっかりとホールドして置かねばならない。ホールドする手のことを補の手というのであるが、操作する手と連動し、一体化した状態でないと力ばかり入って、相手の身体に対する影響力がかなり減衰する。なにより自分が疲れてしまう。そんなことに労力を使うよりは、より簡単な方法で出来る方法論をとろうとするのは必然なのかもしぬ。

 

技法よりもどこが固有ポイントなのかを見極めるほうが余程重要だという論点にたった考え方ではある。しかし、あえて言いたいのだが、仰向けにした状態のままの足に圧が自在にかけられるようになると、ほとんどの手技は難しくはない。微妙な凹凸に合わせて圧が垂直にかけられ、しかも、足自体のブレがないようにしておく術を無意識に行える術者なのであるから。

 

これが行えると身体のバランス感覚が発達して、少しの訓練で様々な身体の部位に無理なく圧がかけられるのである。位置と圧度の問題は依然、残されてはいるが、少なくとも、押圧のコツみたいなものは身についてくる。私自身、あらゆる身体操作は独学であるが、それでも、出来るようになったのは足を相手に悪戦苦闘してきた歴史があるからである。実に不安定な足に対して、安定的な圧を保持しようとしてきた歴史である。これが安定圧でなくとも(揺らし手、マッサージ的技法)同じで、簡単にできる。ただ、好みではないだけだ。

 

手技法家が足から入っていくのもまた、良いのではないかということが言いたいわけだ。ただし、うつ伏せではなく、仰向けでやるということである。仰向け足操作というのは手技に必要な色々な要素が含まっている。的確に行おうとすると、最も難しい部位ではなかろうか。特に足裏は分厚い皮膚、丈夫な筋肉、強靭な靭帯があるため、圧を浸透させるのが難しい。かなりの貫通力が必要だ。しかも不安定とくれば、足裏に安定圧を加える者が少ないのは分からなくもない。拘束を除去するというよりも刺激を送るという考え方に傾いていくのは止むを得ない事情があるのは認めざるを得ない。

 

しかし、リフレ特有のやり方でのみ対応していると、全く進歩がなくなる。人差し指2本だけで足首の拘束を除去できる感動も味合えまい。カウンターストレイン系の技術は絶妙なポジショニングが要求されるが、これは足裏への安定圧のバランス感覚とよく似ていて、恐らく足裏への安定圧ができる者は容易にそのポジションを修得できるだろう。治療系のみに限っていえば、7割方の労力節約である(実際は慰安系も入るため、もう少し力も使うが)


身体操作専門家は足底筋、筋膜と「腰」の関連性についてほぼ一様に言及している。これについてはまた項をあらためて述べたいが、足部にカウンターストレイン系の考え方を導入したとき、改めて人体の不思議さを実感できる。

 

(23)アンチ・エイジング
アンチ・エイジング(抗老化)花盛りである。高齢化社会の到来と相まって、化粧品はいうに及ばず、サプリメント、エステ、美容外科、果ては清涼飲料水まで。これからのビジネスを読み解く一つのキーワードであるらしい。


人がいつまでも若くいたい、少しでも老化を防ぎたいという欲求があるのは自然なことだし、平和な社会の証拠でもあるから、ケチをつける何物もない。おおいに結構なことだ。これからもそのような産業が隆盛になることを願うにやぶさかではない。

 

アンチ・エイジングには方向性が3つほどあるようだ。一つは、容姿の若さを如何に保つかという分野。一つは肉体の健康を如何に維持するかという分野。もう一つは精神の若さを失わないようにするという分野である。


容姿を問題にする分野は主に、化粧品、エステ、究極的には美容外科ということになろうか。健康維持は、健康食品、健康器具やフィットネスクラブなどが該当するだろう。(勿論、我々のような業種も含まれる)


精神の若さを保つには昔からある旅行なども含まれるし、より直接的にはカルチャー的な講座がある。社交ダンスなどは心の若返り産業とも言えるのかもしれない。

 

これらどれ一つとして興味がないという人は珍しいだろう。おおきな括りで言えば、随分前からある「健康産業」という分類に入ると思う。健康に関わる産業の市場規模は全体で30兆円前後だと聞いたこともある。切り口をアンチ・エイジングということにすると、勿論、健康産業は全て含まれることになるし、今まで、それでは括れなかった分野も入ってくるので、もっと市場規模は膨らむに違いない。実に結構なことである。昔、日本も食べるのに精一杯で、容姿にこだわったり、いかに若く見せるかなどというのは一部の特権階級のものだったことを考えると成熟した国家になったものだと、感慨深く思う人達が特に年配者には多いのではないだろうか。

 

当院によく来るドクターの話によると、アンチ・エイジングというキーワードは膨大なビジネス資源になるため、野放しにすると玉石混交、虚実入り混じり状態になるため、ちゃんとした専門家の養成が急務だということらしい。それで医師を含めた抗加齢学会というのも発足し、活動範囲を広げているとのこと。肯ける話ではある。

 

もともと、健康に関するビジネスはどこか胡散臭いものが多かった。かの有名なO教の指導者、A某は健康食品で摘発されたことがある(薬事法違反)。今でも、時々、インチキ商品が摘発され、新聞を賑わすのは読者もご存知の通りであろう。中にはダイエット食品と称して、ネット販売され、死者まで出したというものまである。これなどは究極の実害だろう。

 

また、今のエステ産業はそうでもないが、かつてこの業界はダメージ産業とさえ呼ばれたことがある。キャッチセールスと高額契約がセットになっていた時代で、若い人たちが支払い能力を超えるような契約をし、社会問題にまでなった。いつまでも若々しくいたい、美しくいたいというのは人の性でもある。ここにうまくつけこんだ悪徳商法は排除していかねばならない。消費者自身が目を養うということでもあろう。

 

そうそう、男性は髪が薄くなるとかなり年齢より上に見られる。逆に黒々、フサフサの髪をしているだけで、年齢より若く見られる。そこで、さらに踏み込んで、年配者が茶髪に染めている人もいる。あれは逆効果ではないだろうか。髪だけみると、若者だが、顔を見るとリッパなオジサンというパターンがあって、一瞬絶句することがある。茶髪に染めるのは若者だけの特権だと思っていたが、価値観が多様化しているのか、ちょっとついていけない。五十歳の人が三十歳に見せようとしても無理があるし、本人はそのつもりでも、他人は結構、違和感をもっている場合が多い。その人の年齢にふさわしい成熟さを持っていながら、はつらつとしていれば、リッパなアンチ・エイジングライフだと思う。
まあ、これには異論がある人もいるとは思うが・・

 

経験の中で、実年齢より、年寄りに見える場合は圧倒的に「疲れている」時だと思う。中年以降はとくにそうだ。精気がなく、目に輝きもない―これではいくらエステ通いしたところで、高いサプリを飲んだところで、効果は知れているだろう。精神的な苦悩も、肉体的疲労も全部、顔に出る。人相観もあながち間違いとは言えないのではないか。施術したあと、明らかに人相が変ること度々である。

 

さて、我々の業界でアンチ・エイジングに貢献できる分野というのは、前述のように疲れを取ってあげて、元気にしてあげるということだが、もっと具体的に貢献できるように思う。「若さ」とは「柔らかさ」の異名であると述べたのは、誰であったか・・蓋し、至言である。私もある程度の年齢を重ねてきて切実に感じる。かなり意識を持って、柔軟な身体にすることを心がけなければ、確実に身体は堅くなる。施術していても痛感する問題だ。また、堅くなるとともに、背が縮む。そう、物理的に縮むのである。25歳のときに185センチの身長があっても、80歳にもなれば、175センチくらいになってしまう。生物学的には25歳位が人のピークだと言われている。それ以降は老化していくのみである。身体が堅くなり、背が縮んでいく(個人差はあるが)。ゆっくりと坂道を転がり続けるわけだ。

では、筋肉を柔らかくし、身長を伸ばしてあげることができればどうか?


まさにアンチ・エイジングではなかろうか。老化という定めに逆らうことはできないが、少なくとも、遅らせることができる。


我々、手技療法家にはそれができるのである。丹念に筋肉をほぐし、ツボを操作することによって、または特殊な整体的な操作を加えることによって、身長が伸びるのである。器機によるものと違い、人の手で行うので、無理がなく、効果も高い。


このような身長矯正が功を奏するのはやはり、ある程度の年配者である。個人差があるので、何歳である、と断定することは出来ないが、40歳以降であれば、平均で1センチは伸びる。放っておけば縮む一方なので、その意義は大きいと思う。

 

もともと朝の身長と夜の身長は違う。5ミリから1センチくらいの違いはあろう。しかし、整体操作での身長の伸長は朝も夜も関係ない。どの時間帯で行おうと、伸びる。施術前、施術後、同じ伸長計で計ってみれば一目瞭然である。

 

(24)肩コリの原因
肩コリの原因は大きく分けて五つ。原因が分かれば、対処法が分かるので知っておくに越した事はないと思う。


一つ目は腕のコリからくるもの。あまりピンと来ないと思うが、最近、増えている。腕と目はセットになっていて、大概の者は眼精疲労を伴っているのが特徴である。仕事、生活環境上、目を酷使するシーンが多いのが原因かも知れない(パソコンディスプレイ見続けるなど)。古典経絡では眼病の特効ツボとして大腸経「曲池」が前腕部にあるとしているのはご承知かと思うが、目の特効穴が腕にあること自体、その関連性を如実に示している。かつて増永静人師が上肢に胆経を発見したとき、この「曲池」は大腸経ではなく、胆経上を通るということを確認している。そうなると、なるほど、胆経は目の支配経絡の一つであるから、さもありなんと納得できる。眼精疲労が腕に反映される場合もあるであろうし、腕の疲れが目を弱めることも考えられるので、臨床上、どちらが先かを探る必要性はない。拙い施術経験から言えば、慢性的なコリに悩まされている若い方は、裸眼が0.1ない場合が多いものだ。眼科医が肩コリのエキスパートになる時代が来るかもしれないと密かに思っているのだが、東洋医学を学び、肩コリに取り組む眼科医は今のところ、あまりいない。しばらくは我々の独壇場なのだろう。


さて、腕のコリを感じる一群の人達はいるにせよ、多数派ではあるまい。腕のコリよりも先に肩のコリを感じるのが普通である。だからこそ、腕の施術は盲点になるわけだ。腕のコリを取らないと肩コリがサッパリ抜けないし、目の疲れも癒されないのに、手っ取り早く、クイック的に肩揉みだけでその場しのぎをしているOLさん達を時々見かける。

 

これはかえって不経済なことだと思う。頻繁にクイック的肩揉みで誤魔化すよりも、付け足しではなく、しっかりと上肢を施術して貰って、肩の筋肉を弛めたほうが長持ちするわけだ。経済的にもこのほうが安上がりだと思うのだが、肩コリは肩を揉めば良いという一般的な考えから脱しきれていない。これは業者の責任だ。素人はそんなこと知らないのだから。


そもそも、大手チェーン店のオーナーは施術に通じているわけでもなく、というか施術に関しては素人に近い。ビジネス展開に施術的な知識はかえって邪魔になるのか・・ ・

 

上肢の施術はちょっとしたコツがあって、ただ揉むだけではコリは取れない。ポイントをしっかり押圧するのは勿論だが、スジのツッパリを弛める必要がある。上肢を動かしながら施術すると、緩んでくるのが分かる。また、前頸部や上胸部を弛める必要もあるだろう。肩コリの基本手技といったところか。肩を揉むのは最後でいい。または全く揉むことなく、肩コリが取れる。さほど難しくはない型の肩コリである。仮にタイプⅠとしよう。

 

タイプⅡは肩関節の前方変移がある型である。それがそのまま肩コリの原因となっているものだから、2つ目の原因を述べていることになる。これは少し厄介である。肩コリの基本手技だけでは、すぐにまたコッてしまう。やはり、前方変移矯正をしておかねばならない。体質なのか、生まれつきの骨格なのか、肩が前のほう突き出している一群の人達がいて、この人達がコリ性だと、相当なコリだと思ってよい。肩を揉んでも全く歯が立たないので、かなりの強圧したり、強い揉みを加えて、揉み返しがきたりして、益々、板か鉄板のように硬くなっていく。気の毒の一言。早い時期に適切な手技を受ければ、それほど酷くならないのに・・と思うのだが、大概、このタイプの人達は散々押されたり、揉まれたりしているので、深層筋にまでコリが達していて、スッキリと抜けきらない。しかし、肩関節を前方へ引っ張っている胸筋群を緩め、上肢を緩め、軽い矯正をしていくと、段々と抜けていくものだ。さほどいじられていない身体なら、一回の施術でも抜けるが、瞑眩反応が強く出るきらいがある。加減が難しいところだ。それでも、まだ対処のしようがある良性に近い肩コリだと言えるだろう。

 

臨床的にいうと、タイプⅡはタイプⅠの型も持っていることが多い。つまり、混合型である。弛めるのに多少時間がかかるが、混合型であろうと、やることは同じという部分があるので、たじろぐ必要はない。

 

続いてタイプⅢ。頚椎に変移があるタイプ。中部頚椎に変移を確認できるが、原因は上部頚椎(環椎、軸椎)の歪みから来ていることが多いものだ。そしてコリは下部頚椎(6番、7番)際近辺に溜まる。若しくは1番胸椎近辺に強くコリを感じる場合もある。ここはカウンター・ストレイン的な手技で矯正され、ほぐれていく。手技的には高度なものではないが、このような施術をする人は少ない。受療者の負担とリスクが少ない安全な方法なので、身につけてほしいところだ。頚椎の歪みを放っておくと、肩コリに留まらず、内臓に障害が出てしまう。初期の内なら、その内臓障害はコリをほぐし、矯正をかけるだけで、ケロッと治ってしまうのだが、本格的な機能障害に陥り、器質的な変異に及ぶと、実に厄介なことになる。こうなると、一部、医者の世話にならなければならないだろう。何でも早期発見、早期治療ということだ。


足の裏の汚れが万病の原因だと主張し、一大足揉みブームを作った人もいる(確かHP上のどこかに記述していると思うが)。最近は首こそ命の根本だと主張する施術家が増えてきた。どちらが正しいという問題ではなくて、それぞれ一面の真理を突いている。人それぞれ原因が違うわけで、その原因にピタリとあった人なら、その主張は正しいことになる。万病一元論は日本人の好むところではあるが、たった一つの原因だけで、説明することはできない。しかし、首の重要性を訴える施術家の言葉に素直に耳を傾けてみれば、肯けることは多い。横首には迷走神経がナニゲに何物にも保護されることなくスッと通っている。これだけでも、首の変移が身体に重大な影響を与える根拠になるだろう。

 

因みに頚椎の変移からくるコリは少し突っ張った感じのコリ感である(人によって感受性が違うので絶対的なものではないが)。また、下部頚椎近辺や後頭部の際を押してあげると、とても気持ちがいいという種類の人達でもある。触診的に頚椎の変移を認められなくとも、これらの兆候を示すならば、頚椎の変移があると診ても良い。いずれにしても初期のうちなら、コリをスーッと抜いてあげられるタイプではある。

 

続いてタイプⅣ。タイプⅣは「胸椎」に変移がある型。この胸椎に変移があって、肩コリ様な症状を呈している者には本当に苦労する。まだ横に変移している人はいい。対処しやすい。しかし、前方脱出、つまり陥没的な歪みがある人には、かなり苦労させられるのだ。背部の素肌を直接見ることが出来るアロマ・マッサージ系の施術者なら、目視できるのでこのような一群の人達がいることが分かると思う。我々は着衣の上からだが、それでもはっきりと触診できる。そもそも、胸椎は後方に湾曲しているので陥没は起きづらいものだ。陥没は、前方へ湾曲している腰椎の専売特許みたいなところがあるにも関わらず、胸椎に起きるとは・・背骨と言えば、カイロプラクターの独壇場だが、熟練していないカイロ施術家はこの陥没を普通と診て、その前後の椎骨を後方脱出として診てしまう。そして、押し込もうとして悪化させる。これは腰椎にも言える。

 

ハードカイロは診断が的確であれば、頓挫的に良くすることもあるが、リスクも高いのである。しかし、診断が的確であったとしても腰椎の陥没矯正ならいざしらず、胸椎の陥没を矯正する技法というのは実に難しい。事実上ないに等しい。やはり、自然治癒力、経絡の力を借りる他ないだろう。

 

さて、何故、起きないはずの胸椎に陥没が起きるのだろうか?
少し、考察してみたいと思う。経験則だが、そのような人達に高い確率で共通しているのは、過去に事故、若しくは強い肉体的ショックの経験者であるということだ。普通、起きないということは普通じゃない経験をしているということで、納得できる。局部的なショックでもその衝撃が背骨にまで伝わり、歪めてしまうわけだ。
しかし、それなら、何故素直に、後方へ歪まないのか・・これは、衝撃を受けた箇所やその受けたときの体勢や、個人の骨格によるものとしか言えないと思う。運が悪かったとしか・・である。現実としてそうなので、原因の追求をしても仕方がないが、人情として原因を追求したくなる。しかし、事故、肉体的ショック説はここまでの説明くらいしかできない。

 

次に内臓異常説。内臓が障害を受けると、その内臓に対応する椎骨が捻転する。一種の忌避システムとしてである。このことを阿久津政人氏(十字式健康法)は、神経の植物的性質によるものとした。

 

さて、捻転した椎骨の椎間孔から出ている支配神経は、後方捻転された部分において引っ張られ短くなる。通常、内臓が元気になれば、この捻転は自然治癒力が働き、元に戻る。ところが、継続されると、捻転されたままだ。捻転されたままというのは片一方の神経が短くなったままということで、その神経支配が行き届かず、非常にまずい状態ということになる。そこでまた、生体の防衛反応が働き、椎骨自体が前方へ出てそれを代償する。ここに陥没的歪みが完成する。恐らくこの過程において、何らかのショックが身体を襲ったとき、歪みが固定するのだと思う。だから、稀なのであろう。したがって、ショックだけでも、内臓異常だけでも、この状態は起きづらく、両方の要因が重なったときに起きるものと予想されるわけだ。胃の調子がおかしい時に、スキーで転んだとか・・肝臓の機能が低下しているときに配偶者の浮気を知ったとか・・この場合、精神的ショックであっても、固定化の原因になると思われる。様々なシチュエーションが考えられるので、当人はすでに忘れてしまっていることが多いのではないか。

 

まあ、そんなこんなで、陥没が起きて(事実だからしょうがないですわね、原因仮説は間違いだとしても)、難治性の肩コリ様症状を現出させる。これは背後に内臓の歪みも絡んできているので、全身の経絡的施術が要求されものだ。このタイプで困るのは、全身的施術であっても抜けきらない時があるということである。つまり、肩が楽になっても、まるで代償作用的に他の部分がツマった感じを持ったりと、一回の施術の中で、モグラ叩きをしているような気分である。そのツマったような感じを受ける部分は特定できない。胸だったり、股関節であったり・・肩コリを訴えている人でなくとも、このような感じを受ける人達は、基本的に歪みが深い。だから、たかが肩コリと安易に施術すると痛い目に遭う・・こともあるということだ。

 

タイプⅤ。このタイプは前述のような胸椎陥没変移までは起こしていないが、内臓障害によって起きる型である。特に婦人科系の機能が悪いと、直ちに肩甲背部の筋肉が硬くなるというのは、増永師が卵巣反応と呼んで、広く知られることになった。コリも放っておけば、いずれ内臓に障害が出るので、コリが先にあったのか、内臓障害が先にあってコリを呼んでいるのか、判別できないだろう。私は敢えて判別する必要はないと思う。何故なら、いずれの場合も歪み方は同じで深いからであり、施術方法も同じだからである。これも全身的な施術が要求される。腹証、足証はいうに及ばずである。婦人科系は足が良く効くので、足の施術は欠かせないだろう(大腿部の経絡も含めて)。まあ、こうなると、単なる肩コリ治療ではなくて、体内浄化プログラムということになる。まだ胸椎の陥没がないだけましかと思うが、内臓の歪みの段階は少なくとも七段階くらいはあるので、人によってはてこずる。

 

一段階目は内臓症状としては出ていなくとも潜在的な内臓の経絡的歪みがある状態である。この場合はまだ、歪みとしては浅いので、かなり楽になるし、内臓の調子も元に戻せる。歪みが浅いとは言っても、内臓的に浅いというだけで、そもそも、内臓にまでいくということは一般的には歪みが深いということであって、その辺は誤解なさらないで頂きたい。全身的な処置をして軽くなるということを言っているわけで、肩コリに特化した施術方法では埒が明かない。

 

二段階目、三段階目くらいまでなら、なんとかなるが、四段階目あたりだと、もう医者の世話が必要だし、五段階目なら入院している。本当はそういうレベルの人はやりたくない、というのが本音である。自覚的な内臓障害として出る人はとっくに入院しているのだが、慢性的にゆっくり段階を経るタイプの人は我慢しているうちに、或いは名医に当たらないうちに、段階を重ね、手に負えなくなることもある。肩コリは未病の指標として、重要なものである所以だと思う。とにかく、段階の早いうちの処置が必要である。内臓まで至らない歪みの浅い人は、強くコリを感じたときだけ行きやすい路面店などでそれなりに満足してしまうわけだから、必然的に当院に来院する人々は、歪みの深い人ばかりになってしまう。もう少し歪みの深くない人が、ケアー的に来て頂きたいものだ(なんだか恨み節になってしまった)。

 

以上、増永静人師の知見に従って、自分なりの経験などを踏まえ、肩コリの原因について述べてみた。これらの分類は単独で当てはまるものではなく、実際は原因が重なっている場合が多い。本文で述べているようにタイプⅠとタイプⅡが混合されているとか・・である。全部の要因が重なっている場合もあるかも知れない。或いは三つのタイプの混合とか、四つのタイプの混合とか・・組み合わせは多数に上る。肩コリ一つとっても様々なバリエーションがあるのだが、その分だけ施術のやり方があるわけではない。まず、基本手技があって、それに付加する手技を加えるかどうか・・また、混合型の種類が違っても全く同じ手技の場合もある。要は基本手技のあり方の問題であって、無数の技法を身につけるということではない。

 

手技について言及するのは、文章的性質に馴染まないので、これ以上は止めるが、少なくとも、肩コリの手技というのは肩を揉むことでもないし、肩を押すことでもないということである。

 

これ以外に特殊な例としては、虫歯からくるものとか、リンパ節切除によって起きるものとか、色々である。虫歯は歯医者さんに行かねばならないし、リンパ節切除は、対症療法的にならざるを得ない。我々が対応でき、かつ本質的な歪みを改善できるということに限定したタイプ別であるということをご承知置き願いたい。それとて、程度の問題で、タイプⅣやタイプⅤの深い歪みの方についてはお手上げ、ということもあり得るのである。楽になったという程度なら、どんなタイプの肩コリにも対応できるが、それが本質的改善に繋がっているかどうか、ということである。その範囲を広げるというのが手技法家に科せられた使命かと思う。

 

本文中述べていなかったが、どんなタイプの者でも頭蓋が閉じていると、実に改善しづらい。頭蓋へのアプローチも試みてみるべきだと思う。そういう意味でクイック的なマッサージは本質的改善から程遠いものである。今は環境上、クイック的な施療をやらざるを得ない施術家は、そうしたことを心に秘め、将来のために技術を練磨していって頂きたいと切に願う次第である。

 

 

(25)共感原理
今回は趣向をガラっと変えて、共感原理について述べてみたい。
施術を受けていると、特に体内浄化プログラムは、施術中落ちてしまう(寝てしまう)ことがある。疲れきっている状態で、人の手を当たられるわけだから、気持ち良くなって無理もないだろう。完全に寝入ってしまうと、起きたときは既に施術が終わっていて、なんだか損した気分になると思うが如何だろうか。かと言って、生理的に要求されている眠たいという本能を無理やり我慢するのも良くない。寝せるのが目的ではないということさえ頭に入れて置けば、あとはクライアントの自由意志(本能)に任せていいのではないだろうか。恐らく、大半の施術者はそうしているだろう。中には寝せるを嫌い、絶えずクライントに問い続ける流派もあるようだが。受ける側からすると(個人的にそうなのだが)、うざったくてしょうがない・・

 

さて、施術を続けていると、クライアントは気持ち良くなって、リラックスしてくる。そのリラックスが進んでいくと、夢とうつつの狭間にいる状態が現われる。このとき、寝入って夢をみている状態と違うのは、現状の認識ができるというところにある。

 

つまり、今、ここで施術を受けているという認識であり、周囲のことも認識できる状態である。この状態のことを催眠状態とか、半覚醒状態、そして変性意識状態というわけだ。その程度によって呼び方が違うに過ぎない。

 

この状態のときに、とても面白い状況が現出することが多い。意識下にある基本的な感情が呼び起こされ、涙が止まらなくなったりする(悲しいとか、怒りとかの感情を伴うわけではないが、とにかく涙が出て来るという不思議な感情)。一種のカタルシス(浄化作用)だと思う。このような感情の浄化がときとして起きるので、そういうものを含めて体内浄化プログラム施術というわけだ。不思議なことはこれに留まらず、多いのは、目を閉じているにも関わらず、視界がある色に染まるということである。ある人は紫色であったり、ある人はピンク色であったり・・と。この解釈は微妙だ。若しかしたら、施術を受けているとき、第三の目が開いて施術者のオーラを見ているのかも知れない。先生が近づくと、紫色が視界一杯に広がると指摘したご婦人もいらした(二人いた)。またうちのスタッフは、施術モデルになったとき、生徒さんによって、違う色に見えるという。未知の能力(或いは失われた能力)が施術中の変性意識と相まって顕現されたものなのだろうか。はたまた、意識下の感情がその時々、色という形で表出してくるものなのだろうか。いずれにしても、この現象はかなりの高い確率であり得るのである。

 

これは施術を受ける側が感じるというものである。では、施術する側はどうなのか。基本的に圧反射は単純推圧によって副交感性のものとなる。この時、施術者が充分、リラックスしていて、しかも、力を使わず、筋トーヌス状態で押圧出来たとき、その圧反射はクライアントのみならず、施術自身にも起きる。その圧反射はクライアントと同じように副交感性のものである。副交感性反射は大脳新皮質を経由せず、ダイレクトに感情、本能を司る辺縁系に伝わる。

 

ということは、単純推圧によって共感原理が働いたとき、クライアントとの共感が起きるので、施術者が見えた色というのはクライアントの持つ色ということになる。証診断原理のオーラバージョンというところか。増永師が発見した証診断原理からいうと、自分の意識下ではなくて、どうも相手のものを認識している可能性が高い。まあそれにしても、証診断原理は様々なことに応用が利くものだ。

 

そのうちオーラソーマ・リフレクソロジーなんてものが出てくるかも知れない。共感原理を利用すれば、可能だろう。もともと、経絡を認識するために証診断が生まれたのであるが、経絡証診断はそもそも経絡の走行、反応点が頭に入っていなければならない。そこいくと、オーラ証診断は色そのものが見えるわけだら、知識も要らず、ダイレクトに分かるので、ここから訓練していくのも面白いかもしれない。特に女性は香りに敏感であると同時に色にも敏感である(色弱や色盲が女性には極端に少ないという)。男性よりもはるかに修得が早いものと思われる。

 

さらに面白いのはフラッシュバック様な映像が浮かぶということだ。


自分の人生とはまるで無関係なシーンや人物が瞼に浮かんでくるというもの。船員の姿がなんの脈絡もなく、浮かんできたり、ジプシーの老婆が浮かんで来たりである。正当心理学ではこれも無意識の働きとするわけだが、かのブライアン・ワイス博士は「SHIATU」を受けているとき、突如、自分の前世を鮮やかに思い出したという記述を読んだことがあって、超心理学的にはそのような説明も成り立つのかも知れない。

 

そこら辺は思想、信条が絡んでくるので、何とも断言する材料がない。しかし、どのような理由にせよ、そのような現象は現実としてあり、しかも、それで癒されるということである。
いや~、施術はまことに面白い。

 

 

(26)上達の早道
私が生まれ育ったオホーツク海沿岸部は、今も自然が豊かで、田舎らしい田舎である。電車などないし(汽車である)、最近は合理化のため、本線以外の支線は撤去されている。なんと鉄道がないのである!(私の故郷は本線が通るのでちゃんとあるけど)

 

そんなところにいると、何故か、時間さえゆっくりと流れているような錯覚に陥る。

とりたてて、何が盛んとか、何が強いという土地柄ではないが、カーリングで常呂町が注目され、常呂生まれではないが、近所という感覚で、少し気分がいい(北海道の感覚で近所というだけで、東京的感覚ではかなり距離があるにも関わらず)
そんな程度なので、お国自慢がしづらいところだ。


しかし、かなりマニアな世界では多少有名な土地ではある。

幻の古武道と言われている「大東流・合気柔術」が実に盛んだった土地柄なのである。合気柔術の事実上の創始者と言ってもよい武田惣角師は長くこの付近を活動拠点とされていた。北海道に新天地を求めて入植していた若き植芝盛平師(合気道の創始者)と出会ったところでもある(そこは私が通っていた高校もあるぞ)


そもそも北海道自体が歴史が浅いのだが、合気系にとってはエルサレムみたいなものだろうと、勝手に思っている次第。そのようなことを後年知ったのだが、それで、数々の疑問が解けた。

 

幼いころ、隣のメガネ屋のおじいさんが町の男達を集めて、なにやら怪しい技をかけあっていた。おそろしく背が低く、ヨボヨボに近いおじいさんが屈強な男共を手もなくあしらっていたのである。窓から覗き見して、なんでわざと負けるのかな、おじいさんだから、気を使っているのかな、などと子供心に思ったものである。実はこれぞ、幻の秘技・合気柔術だったわけで、そのおじいさん、武田惣角師に直接学んだらしい。というのは「タケダナントカ先生」という言葉を覚えているからである。自分と同じ苗字なので、その部分だけ鮮明に覚えている。曰くタケダナントカ先生は自分より百倍は強い。曰くタケダナントカ先生に触られただけで動けなくなる。曰く・・etc。こうして町の男衆は技の研究に余念がなかったのである。別に道場があるわけでもなく、普通の民家の居間でごちゃごちゃとやっていたのであるが、後に「広い道場から達人は生まれない」という格言があるのを知って、そういうことか・・と納得した(というわけでもなく、単に道場がなかっただけだろう)

 

それにしても、合気柔術は修得が実に困難である。もともとは剣の理合いから生まれたもので、真剣での経験がなく修得しようと思うと困難を極めてしまう。むしろ、剣の経験がない植芝盛平師が創始した合気道のほうが入りやすいし、修得しやすいものと思う。事実、現在、故郷近郊では合気柔術は陰を潜め、合気道のほうが一般的である。勿論、全国的にもそうだろう。いくら努力してもさっぱり上達しなければ、人間、やる気を失ってしまうものだ。幻の秘技たる所以だろう。

 

しかし、ごく少数とは言え、武田惣角師以来、連綿と技を受け継いできている達人もいる。現在、生存している方達はいくら高齢でも武田惣角師に直接教えを受けたわけではないだろう。40年も昔、直接指導を受けたメガネ屋のおじいさんは文字通りおじいさんで、生きていれば110歳くらいになろうか。技の断絶がなく、受け継いでいるということ自体驚異とさえ思うほど、高度な技術だと思うが、修得するに一つだけ秘訣があるという。

 

それは達人の技を受け続けることだという。ただ、ひたすら受け続けること。その一言に尽きると。合気柔術くらい高度な技になると大脳的理解は受けつけない。多少の練習など、無意味と思えるほど神秘的である。それだと、修得しようがないではないか・・と思うのだが、よくしたもので人間というのは小脳的理解の仕方というものがある。身体に刷り込ませる、というやり方。自転車に乗る練習の高度なものだと思えば分かりやすいかもしれない。自転車よりは余程高度だが、それでも技を受け続けていると、技の絶妙的間合い、神秘的なタイミングが身体で理解されてくるそうな。

 

技をかける練習をするのではなく、技を受け続ける。しかも、達人にである。こういう環境にあって、かつそういう意志を持った者で、さらに才能がある人間だけが、合気柔術の継承者になっていったのだろう。これのどれ一つ欠けても無理かと思う次第である。してみると、めがね屋のおじいさんは稀な人であったに違いない。

 

そうすると、ある程度のレベルにある施術者は上級者の施術を受けることが、上達の早道であることが分かるだろう。合気柔術に限らず、体術の基本だと思うからである。別に達人である必要はないが、少なくとも自分より経験もあり技量も上だと思う施術者の施術を受けることだ。そんな者はいないと思う方は目線を変えて他流派でも良いだろう。それなりに評判をとっている諸先生方は間合いが絶妙であるはずだ。決して、下手な者の施術を継続して受けてはいけない。下手な間合いが身体にインプットされてしまう。クライアントとしてなら、どんな施術でも身体が楽になりさえすればいいが、施術者として技を磨くという目的はまた別なのである。

 

それなりに大きなスクールの欠点はその教えを受けた先生の施術を受ける機会がない、ということだ。そこの校長が世界的なヒーラーであるとか、世界的権威であると宣伝するのは一向に構わないが、そうであればあるほど、施術の世界から遠ざかり、感とタイミングが鈍ってくるはずだ。そうではないから達人だ!というのは間違いで、達人であればあるほど、精妙さがあるはず。一日でさえ空白があれば間違いなく感が鈍るのである。自分を達人というつもりはないので、一日とは言わないが、その私でさえ、3日、空白があれば確実に施術感が鈍っていることが分かる。ほぼ2年、施術から遠ざかっていたことがあるが、感を取り戻すのに同じ期間くらいかかった。そのくらい微妙なものである。さらに今現在、微妙な修正を加えている。ゴールはない世界なので、引退するまで微妙な修正を加え続けるだろう。

 

ある人を師とし、その人と同じような施術をしたいと思っても同じにはできない。あるレベル以上になると、むしろできないことのほうが重要である。そこから先は個性というものが出る。個性の違いは埋没させるものではなく、ある時期からは前面に出すものであろう。芸能の世界ではその人独自の芸風と呼ぶ。古今亭志ん生と桂春団治ではまるで芸風が違うが両方とも名人である。カラヤンの五番「運命」とフルトヴェングラーの「運命」も違う。しかし、両者とも巨匠と納得させるものを感じさせる。極端な話、ブーニンとフジコ・ヘミングのチャイコフスキーではこれが同じ曲か!と思うくらいの違いがあるが、双方とも天才ピアニストであることに変りはないのである。絵画でも音楽でも芸能でも最後はいかに自分の個性を出すかということに注力するわけだ。ゴッホとモディリアーニの価値の違いは鑑賞者の好みの違いでしかなく、どっちが高いかということではない。最初は模倣から入るが、最後は個性に終わる。終わりなき追及の果てに。

 

 

(27)バナナ酢
しばらく本を読むのに時間を取られ、書くという作業をサボっていたので、少しづつ溜めていた原稿を一挙に公開することにした。とはいうものの、随分前に書いた原稿は、自分の中では新鮮味がなく、読み返してもつまらないものである。そこで、新しい原稿を今書いている最中なのだが、どのような内容にしようか迷ってしまった。文字による情報伝達は達意の文章家でさえ、難しいものである。まして私などが意を尽くせるなどとは考えていないが、最近の出来事をエッセイ風にまとめてみようと思う。秀逸な名文にならないことだけは保証しよう。

 

さて、ある女性クライアントが来院された。その方、熱心にバナナ酢の効用を説いておられた。バナナ酢?

浅学のため初めて聞く「酢」の名前である。よく聞いてみると、これは自分で作るらしい。作り方は簡単で、とにかく「酢」を用意する(これはなんでもいいらしい、私はリンゴ酢を薦められた)。それと黒砂糖、そしてバナナである。


要するに黒砂糖と2センチ程の長さに切ったバナナを酢に漬け込むというだけのものである。簡単といえばこれほど簡単なものはない。漬けておいて放っておけば、勝ってに熟成が進み、まろやかなバナナ酢の出来上がりということになる。このとき、熟成を早めたい場合、電子レンジで一分ほど加熱すれば、24時間後には飲用に耐えられるほど、熟成が進むとのことだ。勿論、電子レンジが嫌いな方は、時間をかけて熟成させればよい。この場合は24時間でというわけにもいかず、一週間は必要であろう。私は気が短いので、問題が取り沙汰されているが、文明の利器を利用することにした。つまり電子レンジをである。健康志向の方は徹底される場合があって、レンジの使用を絶対認めないケースもあるらしい。私はそういうものに関してはほとんど無頓着なので、そこまではこだわらない。

 

分量や材料の比率に関しては、ネット検索で「バナナ酢」を入力すれば、すぐに出てくるはず。幾通りかのレシピがあるが、これは好みの問題であろう。
そうこうしているうちに出来上がった。
(と書くとあたかも自分1人で作ったかのように思われるだろうが、実はうちのスタッフが全部作った。私は見てただけ。そして待っただけである)

 

もともと、私は手技バカで健康食品とか補助食品には興味がないのである。昔、昔、健康食品ブームみたいなものがあって、販売方式はマルチ的で法外な価格であったり、簡単に作られるという名目のもの(例えば、紅茶きのこ)があっという間にブームになって、あっという間にブームが去っていくのを何度も見てきた。一部マスコミはこれでもかというくらい、身体にいいもの特集を組んだりしている。ある意味、私の年代はそのようなトラウマがあるわけだ。だから、そのようなトラウマがない若い世代のほうがこのような流行には敏感かと思う。(事実、このバナナ酢を薦めてくれた方はうら若き女性であった)

 

それでも、興味を抱いたのはまず、それほど費用がかからないということ(今どき、バナナなんて安いですものね)。それと酢の効用である。クエン酸回路の確立により、疲労物質が除去されることはすでに証明されているところである。


また、新潟大学の安保教授は面白い見解を述べていた。曰く「酢は基本的に毒である」と。ここだけ読むとかなり刺激的な否定的見解に思われるかも知れないが、そのココロは少量の毒を身体にいれると、それを排除しようとする身体のシステムが働き、そのとき身体に溜まっていた毒も一緒に排泄されるということだ。つまり身体の清浄化を行うものとして有効な方法であるということ。だから、基本的に毒が溜まっていない「子供は酢が嫌い」であると・・思いあたる節がある。私も酢が大嫌いであった。そして、毒が溜まっているであろう中年、つまりこの歳になっても嫌いなままなのである。

 

身体に毒が溜まっていないとは考えられないライフスタイル、年齢にも関わらず、である。多分、味覚は子供まま大人になってしまったのであろう。辛いものも子供ときと同じで苦手である。カレーは未だにハウスバーモントカレー甘口が一番好きだし、焼き鳥に唐辛子をバンバンかけて食べる人を信じられない思いで見ている。苦いのもダメで、コーヒーはまず飲めない。酒も皆と一緒だといくらでも飲めるが、晩酌などとんでもなく、よくこんな不味いものを一人で飲めるな、という感覚である。


インナーチャイルドが味覚に具現化された象徴的な存在なのかもしれない。ようするに大人になりきれない子供というわけだ。世のほとんどの男性が多少なりともそういう部分はあると思うが、私の場合、味覚に端的に現われているような気がする(心理学的には興味のある問題だ)

 

ともあれ、作ってはみたものの(作っては頂いたものの)、酸っぱい!とにかく苦手な味である。レシピではミルクで割るのも良し・・ということだったので牛乳で割ってみた。ヨーグルトの味がするが、やはり酸っぱすぎる。ならば、ミネラルウォーターはどうか。レシピでは5~6倍の希釈と書いてあったが、思い切って10倍以上にしてみた。


なんと美味いではないか!ノスタルジーを感じさせるような甘酸っぱさと、ほのかなバナナの香り・・これはいける!というわけで、この一文もバナナ酢を飲みながら書いている。


熟成も進みマロヤカ度も増していて飲み頃である。もう残り少ない。また作って貰おう。
(簡単だったら自分で作れって?分かりました、自分で作りますよ)

 

さて、その効用の実感であるが、間違いなく言えるのは便通が良くなったということ。もともと便通は悪いほうではないが、それでもはっきり分かるくらいよく出る(食前の方、失礼)。疲労回復のほうは疲労物質を測定していたわけではないが、心持ち回復力が増しているような気がする。空腹感も抑えられる(なるほどバナナ酢ダイエットというわけだ)


その他、垢が出やすい・・代謝が促進されたせいか。
まだ、始めたばかりで、効用について云々するのは僭越だと思うが、リーズナブルだというのがいい。特に私の場合、希釈率が高いので、結構持つ。多分、平均すると一週間に2千円以内の出費で済むはず。その分、食費が節約できるから、相殺されて費用はかからず、ということか。効果があるものでも費用がかかり過ぎるものは長続きしないし、手間のかかり過ぎるものも長続きしない。また、新しい成分のものも、あとで新しい学説で否定され、かえって不健康だということにもなりかねない。その点、完全食品たるバナナと昔ながらの酢の組み合わせは問題ないように思われる。

 

ちなみに漬けたバナナは食べてもいいということだが、酸っぱすぎて私は食べられない。まあ、抽出成分で我慢しておこう。
(この原稿を書き上げた後、知ったのであるが、熟成が進むとバナナも酸っぱさが取れ、甘酸っぱくて美味しい味になるようだ)

 

典型的な酢苦手タイプの私でも実践できるのだから、手軽なデトックスとして試されたら如何だろうか。

 

今、思いついたのだが、このバナナ酢を卵焼きの隠し味にしたらどうか?ちょうど冷蔵庫に卵が入っているので原稿書きを中断して作ってみよう。

 

作って試食後
塩、コショウ、そしてバナナ酢。これだけで味付け。
焼き方はオムレツではなく、こてこての卵焼き(つまりウエルダン)。
う~ん、なんと言おうか・・「中華的トロピカル様和風卵焼き」になってしまった。
ケミカルな後味がしなくてかえっていいかも。
勇気のある方、作ってみてください(クレームは受け付けません)。

 

(28)問題の所在
前回は施術雑感というよりも単なる身辺日記になってしまった。施術のことは一つも出てこないわけで、施術雑感のカテゴリーには入らないだろうと思う。そこで今回はコテコテの施術に関する雑感を書きたい。


表題にあるように「問題の所在」ということだ。「問題の所在」というキーワードは施術においては最も重要で、かつ生涯をかけて追求していくテーマでもある。

 

何度かこのHPでも言及しているかと思うが、施術において技法は目的ではない。手段である。何が目的なのかはいうまでもなく、クライアントの健康度の改善であり、促進である。そのための手段として技法あるわけだ。当たり前といえば当り前のことなのだが、基本的に誤りを犯している施術家の卵達がいるので、この際、はっきりと肝に銘じて頂きたい思いがあって、この拙文を書いている次第である。


健康度を改善、若しくは促進するにはまずその人の問題の所在を掴まねばならない。何故、そのような訴に至っているのか。どこにその人の問題が潜んでいるのか。これを探り決定するということが何よりまして重要なことなのである。それを追求していくことこそが、自然療法家たる施術家のレベルを上げるということに他ならない。

 

そしてそれは経験と不断の研究から生まれてくるもので、器用、不器用はほとんど関係ない。ただ経験を積めば良いというものでもなく、ただ書物を読み漁れば良いというものでもない。両方が両輪のようにうまく噛みあって、はじめて自分なりの見解を得られるようになる。

 

一例をあげてみたい。かのアンドルー・ワイル博士の著作に出てくる話である。ある若い女性が疲れやすく、無気力でどうにもこうにもならないという状況に陥った。当然ながら西洋医学的な検査を一通り行ったが、どこにも異常がないという。次にはこれまた当然の如くに代替医療を渡り歩いた。ホメオパシー、漢方、鍼、オステオパシー・・etc。しかし、改善はみられなかった。そこでワイル博士はそれらの経過を聞きながら、経験と直感によって、この人は甲状腺に問題があるのではないかと思ったという。西洋医学での検査では甲状腺に異常が認められていないにもかかわらず、である。しかし、ワイル博士は経験で、特に若い女性には甲状腺の検査数値など当てにならないということを知っていたのである。そして、博士はその女性には未だ誰も出したことがない処方を書いた。即ち、甲状腺ホルモンを促進させる薬の処方である。これにより、その女性は長年の苦しみから直ちに救われた。今までの症状がウソのように消え、元気を取り戻したとのことだ。

 

ワイル博士は手技療法家ではないので、手技という手段をとらなかった(とれなかった)。
が、しかし、問題の所在を掴まえるということはどういうことかを象徴的に表わしているエピソードである。問題の所在を掴まえるということはどのような立場であれ、人を癒す仕事に就く者には絶対に必要なことなのである。

 

何故、ワイル博士の経験談を持ち出したかというと、実はこのような「甲状腺チョット異常」という症例が意外に多いからでもある。検査数値的に問題なくとも、明らかに甲状腺のホルモンの乱れからきていると判断できる一群の人たち(特に女性に多い)がいるということを、これをキッカケに知って頂ければと思う。また、甲状腺の異常には足が良く効く(施術百話にも載せているが)。反射区的にも経絡的にもである。経絡的には胃経(肝、腎もだが)が支配経絡の一つである。足心部への深い押圧や胃経へのアプローチなどで、ノドのあたりがむず痒くなったり、一瞬、咳が出たりすれば、十中八九、甲状腺に問題があると診て間違いない(男性はその確率が低いが)。このような見解は10年ほど前に読んだ、まさに今例に出したワイル博士の著作に啓発され、注意深く観察した結果、もたらされたものである。だから、本も読まねばならない。しかし、読んだからといって、そのまま放っておけば忘れてしまう。検証していくということが大事なのである。

 

リフレクソロジストはほとんどの臓器の反射区をまんべんなく刺激するので、問題の所在など分からなくとも良いのではないか?という意見もあろう。答えはノー!ノー!オー・ノー!である。そこが問題の所在であると認識して行う手技と、基本として行う手技では雲泥の差が出る。これは東洋医学の「証」をとるという概念にも繋がるのだが、問題の所在としてそこを施術するという行為自体に「証」をとる行為が含まれる。そして、「証」をとる行為というのはそこが問題の所在であって、そこをどうにかすれば治るという確信、思いが含まっている。それがあるから、改善の方向へと向かうのである。つまり、「証」とは確信に導かれてこその「証」なのである。勿論、意図せず、かってに治る場合もあろうが、守備範囲は狭くなる。「証」をとるというのは何も特別なことではない。経絡が見えるということも特別なことではない。そこに問題があると確信したとき浮かび上がる実相なのである。


述べてきたことから分かるように、「証」をとるいうのは別に東洋的な経絡でなくとも構わないのである。それは反射区でもいいし、関節系の拘束と捉えても構わない。或いは、瞬時に使い分けてもいいだろう。

 

増永静人先生は二経の虚実を「証」をとる基本とされた。フルフォード博士は筋・筋膜・靭帯・骨格・関節のエネルギーブロック(拘束)、そして頭蓋、仙尾骨の動きを「証」の基本とされた。いずれも「証」を捉えていることに変りはない。つまり、問題の所在を掴もうとされたのである。言葉の違いにしか過ぎないし、体系が異なるので捉え方が違うに過ぎない。しかし、やろうとしたことは同じである。繰り返すが、その人の問題の所在を掴もうとしたのである。

 

リフレクソロジーに話を戻してみたいが、個人的には反射区というものをここ最近使わなくなっている。理由は種々あって、それはこのHP全体に書かれていることを忖度して頂ければお分かりかと思う。しかし、まずリフレから手技法に入る方も多く、今なおリフレ的な反射区をもとに施術されている方もいるはずである。その方達にあるアドバイスをしたい。リフレでも「証」はとれると述べた。ある程度のベテランになると、足を診た瞬間にどこに問題があるか、感が働いて分かるという方もいるだろう。感の鋭い方はそういう診方が自然と身につくわけだが、それほど感が鋭くない人はどうだろうか?男は女よりも感が鋭くないわけだし、しかしよくしたもので、思い込みというリスクは避けられる。


今、様々なレベル、様々な立場に立っているリフレクソロジスト達、それぞれ技量や経験は違うかもしれないが、一つだけ、共通して勉強して頂きたいことがある。それは身体の仕組みを覚えるということ。その身体の仕組みというのは、解剖、生理学だけでは足りない。むしろ、医師の国家試験を受けるわけでも、解剖学者になるわけでもないわけだから、精密な解剖知識や生理学知識は不要である。もっと重要なのは現在知られている以上に身体は一つで全体であるという仕組みを知って頂きたいのである。例えば、足首の捻挫が首の筋肉の異常を招くとともに、心臓へいく神経を圧迫し、心臓の症状と現われるかもしれないということや、小腸の機能低下が腰痛の原因かもしれないということや、腎臓の検査数値は何ら異常ではないのに、3分の1の能力を失い、かつそれが原因で血圧を押し上げているかもしれないということや、頚椎の異常が三叉神経痛を誘発しているかもしれないということや・・etc。キリがないように思えるが無限ではないし、ある法則を知れば容易に類推することができるものである。そうすると、反射区の診方がまるで変ってくるだろう。そして勘も働きやすくなってくる。

 

リフレ的な診方だけでは物足りないとか・・それ以上のことを求めるのは自由であるし、また違う診方も存在する。仮に違う方法や診方をとるにせよ、身体が全体で一つという診方だけはどの方法論でも役に立つ。役に立つというより、必須のものであろう。

 

特別な場合を除き、歪みともいうべきその人の問題の所在は表から裏へと移行していく。筋・筋膜上の問題はやがて関節の問題、内臓の問題へと移行していくのである。だから、経絡には内臓の名前が付けられた。また、臓腑には感情がそれぞれ配当されているように、心と身体はほとんど一体である。また別な側面からいうと、感情の鬱屈は胸骨の動きを物理的に阻害する。胸骨の動きが阻害されれば胸腺由来の免疫系機能が低下する。おまけに胸骨から出ているリンパ管が詰まり、リンパ流のヨドミを生み出す。その上、呼吸が浅くなるので、身体が酸欠状態になる。これで病気にならないほうがおかしい。感情を抑えて溜め込むというのはいかほど身体に害を及ぼすか。なんとなくではなく、はっきりと理解し、説明できるようにしなければならないわけだ。

 

身体の全体性や心と身体の密接な結びつき、そして現象として現われる個別性。このようなことを理解することなしに、問題の所在は掴めない(超能力的な感の鋭さを持つ人は別にして)。問題の所在を掴めない人のことを普通は施術者とも療法家とも呼ばない。なんと呼べばいいのか。作業者か・・ ・

 

問題の所在を掴む=「証」と考えていいのだが、その「証」を得るために大変な努力をするわけだ。まさに施術家としての努力のうち80%以上は占めるだろう。肩コリ一つとっても単なる症状として、見過ごしてはいけないと思う。その肩コリはどこから来ているのか。内臓的な問題を抱えているのか、ホルモンバランスの問題なのか、肩関節の拘束なのか、そもそも、身体が歪んでいる故なのか、その身体の歪みは元を質せば、どこに原因があるのか。もしかしたら、臀部の筋肉かもしれない(小さい頃おしりに皮下注射を頻繁に打っていた可能性もある)。このように問題の所在を探るのである。証をとるということは実に手間がかかり、努力を要するものなのである。この過程を省略して、直感など働くわけがない。

 

よく見聞きする話だが、施術者の中で、次々に違う療法を学びたがる者がいる。個人の自由なので文句をつける筋合いのものではないことは承知の上で言いたい。その技術を身に付けたいのだけなのか、その療法の持つ身体の診方(つまり証のとりかた)を身に付けたいのか。前者であれば、一生たいしたものにはならない。なんでもできるが何も出来ない施術者、つまり作業者になるのが落ちであろう。後者なら、様々な角度から証がとれるようになるであろうし、技術も早くマスターできるはずである。是非、ご一考願いたい。

 

さて、問題の所在を自分なりに掴まえたとしよう。
次はその問題点の解消である。つまり技術の問題だ。どのような技術を使えば、その問題が解消し得るのか。これは様々な療法が巷に溢れているので、絶対にこれが正しいということはできない。ある者の問題にはカイロ的な技術が役立つかも知れぬし、ある者にはリフレ的なアプローチのほうがいいかもしれない。絶対に効くという療法もないのと同じで、絶対効かないという療法もない。実はそれが真実である。そんなこと言っていたら、世の中にある全ての手技技術をマスターしなければいけないじゃないか!という反論もあろう。そう、そのとおりで、物理的に無理である。やはり自分のよって立つところの基本技術をしっかりと身につけ、それに知識の向上とともに付加していくより他ないだろうと思う。私はリフレ出身の施術者だが、リフレだけではどうしても問題が解決しない例に何度も直面して整体をやるようになった(解決しないというか解決が遅いということ)。また、リフレから離れ、足証療法も考えた。このように問題意識を持って取り組めば、自ずと付加されてくると思う。クラニアルしかり、セイクラルしかりである。繰り返しになるが、技法を学んだのではなく、身体の診方を学んだのである。技法は何度もやっていればバカでも上手くなる。(バカな私がいうのだから間違いない)

 

例えばこういうことである。
反射区的に頭部に問題が診て取れたとしよう。経絡的に診ると三焦経に歪みがあるとして、この二つから脳膜に問題の所在があると判断できる。そうすると、その時点での選択肢は一つである。反射区的には頭部を重点とし、経絡的には三焦経を重点とするということ。しかし、脳膜の自律的な動きが減少し、クラニアル・リズミックインパルスが減衰するという概念を知ったらどうであろうか。その人の問題の本当の所在は頭蓋の微細運動の阻害と捉えられるだろう。そう捉えたならば、頭蓋の動きをよくする技法を選んだほうが合理的である。そう、合理的なのである。このようにして、技法は付加されていく。技法は概念とともに積み増しされていくのである。

 

手技で何を最初にやればいいのか。何を基本技術にすれば良いのか、という問題。


私は押圧だと思う。つまり単純推圧である。単純推圧は全く技巧的な技術ではない。手当ての延長線上にあるものだからである。部位が的確で適正な刺激量であれば手技で治るもののうち、70%はカバーできると思う。
たった一日でマスターできるが、10年経ってもマスターできないものでもある。実に奥深さがある。押圧に関してはまた項を改めて述べてみたい。

 

(29)押圧
前回、項を改めて押圧について述べたいと記した。忘れないうちに述べておこう。


さて、押圧。単純推圧が見直された歴史的な背景があるようだ。私もまた聞きの類にはいるので恐縮するが、増永師の知見に従ってご紹介したい。

 

もともと、按摩というものが、盲人専業になった時代、つまり江戸時代に按摩自体の変質が始ったようだ。所謂、曲技曲手と言われる速いリズムと技巧的な手の使い方になったとのこと。やがてこの手の使い方は西洋マッサージ的でもあったので、明治以降、それらと混合され、ほとんど区別がつかなくなった。しかし、法制上は、按摩とマッサージは別のものとしてたて分けられている。今、業者に按摩だけを頼むといって、昔ながらの按摩を所望しても、多分マッサージ的技法が入っていて、純粋な按摩を受ける機会はないだろう。たまに極たまにクライアントがいうには、ホテルでマッサージを頼んだら、「オサスリ」だったよ、という方もいらっしゃる。であるから、絶滅しているわけではなく、それなりに使い手もいるのだろう。クライアントが「オサスリ」と表現している如く、近代按摩は表面的な筋肉を早いタイミングで、言ってみれば超絶技巧的な手の動かし方で揉む。何故、そうなったかはニ説あって、一つは盲人専業であるが故に「探る手」がそのまま技法になったということ。もう一つはギルド的職能組織の中で、モグリを区別するためとも言われている。日本人は器用であるから、見よう見まねで人の身体を揉む者も現われた。それらの者と明らかに一線を画したいという意図があったということである。いくら器用でも超絶技巧的な「手」が要求されれば明らかに触られた感触が違うと分かる。現代風にいうならば、プロとアマの区別のようなものか。


しかし、江戸中期頃からすでにこのような治病効果とは全く関係ないところで技法を磨いても意味がないと主張する者が現われた。「按腹図解」を表わした太田晋斉という人である。


彼は自分自身奇病に取り憑かれ、色々な治療法を試みたが、効果がなかったという。それで、単純な推圧を腹部に施したところ著効を得たそうである。そのような経緯もあって、あの有名な名言が生まれるのである。現代語訳にすると「曲技曲手を捨て、女、子供でもできる単純推圧に還れ」。還れということは、本質がズレていって、本来は単純推圧であったところの按摩、つまり古方の按摩はそういう姿であったと暗示しているわけだ。しかし、時代が時代であるから、一部でしかその影響は見られなかった。さらに時代が下り、幕府の統制下にない政府が誕生した。明治維新である。明治維新によって漢方が医療として認めらなくなった代わりに、医師不足の故もあって民間療法が根強く残っていったわけだ。その民間療法の中には当然、手技も含まる。このときに相当、太田晋斉の按腹図解が影響を与え、一部の治療家は従来(江戸時代に確立した近代按摩)の按摩を否定し、単純推圧を多用するようになった。さらに大正時代には、「指圧」という言葉も生み出され、紆余曲折はあるにせよ、昭和に入り、波越徳次郎氏のタレント性とハリウッドの大スターとの逸話、伝説で一気にメジャーなものになったわけである。

 

単純推圧を用いる「指圧」は法制上、民間療法から出発している。その実体は古方按摩であろう。治療術であるという自負もあり、按摩やマッサージが国家資格であるのに、指圧は民間資格という不合理に憤り、指圧関係者が国家資格に昇格させるべく、奔走したそうだ。それが功を奏し、昭和20年代の後半くらいには、按摩、マッサージに続いて、指圧もまた国家資格になった。本来、手技の本流であると自負している指圧家はこれでもまだ足らず、さらに指圧は指圧で独立した資格にすべきという運動も起したが、さすがに同業の反発もあり不発に終わったようである。

 

しかし、昭和35年にこれら業者が、仰天する事件が起こった。当時はその影響や重要性に本当の意味で気づいていたかどうかは分からない。しかし、現在のリフレ、アロママッサージ、エステ、整体の隆盛はこの事件から始っているのである。


その事件とは、最高裁の判決である。手技を法律で取り締まることは、「職業選択の自由」を保証した憲法に違反するという内容のものだ。字句どおり解釈すれば、指圧、按摩、マッサージによって、手技を取り締まることは出来ない、自由にやりなさい、ということになる。日本国の最高法規たる憲法に違反するような法律は無効であるからである。ご承知のとおり、指圧、按摩、マッサージに関する法律は未だ存続している。しかし、意味合いが昭和35年を境にまるで変わったのである。なんと例えればよいのか・・その判決以前では業務独占権が与えられていたものが判決以降、名称独占権のみになってしまったようなものだろう。


普通、国家資格は業務を独占できるが故に価値がある。医師しかり、弁護士しかりである。税理士も司法書士もそうだ。これらが職業選択の自由という憲法上の保証があるのにもかかわらず、個別の法律によって、シバリがかけられているのは、国民の生命、財産を直接的に脅かす可能性があるからである(ある水準に達していないと)。だから、法によって資格を与え、具体的には試験に合格するという水準を設けることによって、公共の福祉を実現しようとする大儀がある。故に無資格者が医師の業務したり、弁護士の業務をしたりすれば憲法上の職業選択の自由は行使できず、それぞれの法律(医師法、弁護士法)で裁かれることになる。


そう考えてみると、手技は甘く見られたものだ。国家資格のシバリがかけられず自由なのだから。しかし、その判決によって、今日の手技療法界の隆盛があるのだから、このときの最高裁の判事には感謝せねばならないだろう。(指圧、按摩、マッサージ師には大変気の毒だが)

 

話を戻そう。押圧を主体とする技法は遡れば人類発祥よりあった手当てが基本となる。手を当てるだけで本当の病人には効くものだ。それが、病気治しとして、圧を加えるようになったのはこれも本能のなせる業であろう。圧変化は身体に確かに影響を及ぼす。大気圧でさえ、低気圧のときはなんとなく気分がすぐれず、高気圧のときのはある種の爽快感が得られる。自然界の圧が自律神経に影響を及ぼしている好例だ。静脈循環は主に下肢の筋肉の圧変化によって生み出される。寝ているときでさえ、寝返りをうちながら、そこここに圧変化を与え、体液循環を促しているのである。このように生物には圧変化が必ずついて回るし、また必要なものなのである。(無重力状態の宇宙飛行士の顔を見てみるとよい。むくんでパンパンであろう。高血圧の人は長く無重力状態にはいられない。また気圧0の世界では人間は瞬時に破裂して即死する)


局所的な圧変化を人の手で与える。そうすると、押圧時は皮膚、筋・筋膜、血管、神経、などが圧迫される。押圧とは離圧とセットになっていて、離圧時にそれら圧迫された組織が解放され、筋・筋膜に拘束があれば解かれるし、血液の流れが悪ければ、勢いがついて流れ出す。また神経伝達も良くなるだろう。浸透圧によって営まれている代謝の部分は押圧と離圧によってより促進される。ということで、いいこと尽くめなのだが、さらにその人の特有のポイントを選ぶことができたなら、単なるリラックス効果に留まらず、自然治癒を妨げている原因(真のコリ)が解消され、改善へと進むだろう。


本能的に行ったであろうところの単純推圧は現代医学の所見にも適合し、その効果を保証してくれるわけだ。単純推圧が最も安全だし、効果を得さしめるのである。単純な推圧であるが故に簡単で、誰でもできるものである。

 

しかし、前回の雑感で「一日でマスターできるが10年経ってもマスターできない」旨のことを述べた。甚だしい言語矛盾と感じられるだろう。そのココロは単純であるが故に誤魔化しが効かないということ。ポイントのズレ、角度、圧力の些細な違いが、まるで別のもを受けているかのように感じられる。さらに押圧と離圧のタイミング、全体の間(マ)もかなり影響する。せっかくポイントを突いているのに圧力が足りなかったり、強すぎたりすれば、台無しになる。ポイントと刺激量の問題。ポイントは前項「問題の所在」とも通ずるものなので、それはほとんど一生かけて追求しなければならないものだ。故にここでは触れないが、それを除いた場合、重要な要素は一つ。

 

それはこのHPで何度か出てきている刺激量(ドーゼ)の問題(手技押圧の場合、圧力と言い換えてもいいだろう)。これは手技に関わらず、鍼灸でも重要な問題であると聞く。


受け手の感受性によってこれは変化する。同じ刺激量でも感じない者もいるし、強すぎて、我慢を強いられる者もいる。痛ければ効くというものでもないわけだから、この加減が難しい。施術家は様々な人の身体を相手にせねばならない。環境にもよるが、所謂、マッサージ慣れ、指圧慣れした人が多く集まるサロンでやっていると、どうしても刺激量が多くなってしまう。その逆のケースもあるわけで、相手の感受性を考えた施術というのはその時点で難しいものになってしまうだろう。自分にあったクライアントが自然にリピート顧客になってくれるわけだから、人によって変える必要はない、と広言する施術家もいるが、満足を提供するというだけなら、それは単に慰安である。健康度の改善、或いは促進を一義的に考えないと施術家ではなく、慰安家になってしまう。実はこの圧力の加減は難しいし、面倒なものである。圧力を調整するということ自体、施術家にとってはストレスであろう。そこでドーゼの要素を分解して考えてみたい。

 

まずは圧面積の要素。圧力の調整は施術家にとって基本的にストレスが溜まるわけだ。同じ圧力でも、圧面積が違うと単位面積当りの刺激量が違ってくる。物理的に当然の話だ。圧は一定であるが、圧面積を微妙に変えていけば施術ストレスは大幅に軽減される。ベテランの施術家は無意識に行っているものだろうとは思うが、今一度、意識的に行ってみるとよい。手技におけるよき押圧というのは体重が乗るということでもあり、体重移動をいかにスムーズに行うかということでもある。ここで体重を乗せるという表現を使ったが、実際、乗っかるというわけではなく、なんと言えばいいのか、言葉に詰まるが、要するに増永師のいう相手にもたれる、若しくは支えてもらう、という表現になろうか。これでもうまく表現出来ているとは思わない。ある療法家は増永批判の中で、「要するに支え圧というのはこういうことでしょ。これじゃ、全然効かないよ」と述べていたが、見ると、全然支え圧になっていなかった。形は似ているが、本質が違う。体重移動というのは自分の持っているポテンシャルの移動なのであって、単に体重を乗っけることではない。位置エネルギーがロスすることなく相手に移っていく状態のことをいうわけだ。難しい言葉でいうと「勁を発する」としかいい様がない。「自得を待つ」、と古人がいうそれである。

 

そのような体重移動による押圧は押していてストレスがない。むしろ自分のポテンシャルが相手に伝わっていく感覚を実感できるということは気持ちの良いものだ。さて、そのストレスのなさを加減によって台無しされてしまう。そこで、そのまま体重移動は残しておいて、圧面積で調整を行うとどうなるか。例えば、母指頭と母指腹では優に3倍くらいの面積の違いがあろう。これは人によって変えることもするが押圧部位によっても変えることができる。まずは広めの面積でストレスなく体重を乗せてみる。その身体の状態が読み取れる。圧の調整という余計な気を使わなくて済む分、施術者自ら副交感優位になって相手の副交感性の反射を感じ取れる状態になるからである。そうしておいて、コリやツボを感じ取り、やはり体重移動の圧力はそのままで刺激面積を狭くする。そうすると、同じ圧力でも鋭く入り、ツボの深い人でも届く。

 

手技療法家にとって、ストレスのない施術は重要である。前述のとおりである。そのストレスの軽減は「力」の加減ではなく、「圧面積」の加減によって行い得るのである。

 

次に圧時間の要素。同じ圧力、同じ圧面積であれば、圧している時間そのものが刺激量を決定する。これも初歩物理の道理であるから、異存はあるまい。1秒間押しているのと10秒間押しているのとを、同じ感覚で受け取る人はまずいないだろう。


単に物理的な問題ではなく、人というのは感覚が全てを決定するわけだから、そういう意味でも、圧時間は重要である。押圧された部位から身体に浸透し、充分に「効いている」という感覚を与えるには、人の身体の性質上、タイムラグを計算に入れなければならない。即ち、人は直ちに感じるのではなく、ある間(マ)をもって感じるということだ。特に身体の感覚というのは視覚や聴覚とは違って、かなり原始的な感覚である。そこにも圧時間という要素が重要である所以がある。

 

物理的なエネルギーのインプットという意味においても、心理的な意味においても、圧時間をいかほどにするか、というのが重要なテーマになるわけだ。結論からいうと、これもまた、“自得を待つ”という世界なのだが、少なくとも、ストレスのない状態で押していられる状態を作りだすことができれば、相手がもう充分なのか、まだ、そこを押し続けてほしいのか、何となくわかるように出来ているものだ。人は、共感作用が無意識に働くように作られているということを理解して頂きたい。

 

このようにしてドーゼの問題は圧面積と圧時間という二つの要素によって、感得し、かつストレスが軽減される形で解決し得る。繰り返すが押圧部位の問題はまた別の問題である。


面に対して垂直な角度を維持し、ストレスなく術者のポテンシャルが移動し、圧面積が適正で、かつ安定圧時間が的確である、というレベルは様々な感受性を持つ様々な人々を相手にするプロとしての環境で考えれば、10年かかるというのも理解して貰えるものと思う。


しかも、依然、押圧部位の問題は残されているのだから。

しかし、かくの如き要素に分解し、それを意識して行えば、その感覚を掴むのに、10年もかかることはないだろう。意識できるかどうか。心がけるかどうかである。ある者は1年でそのコツを体得するかもしれない。漫然と行っていると10年かけてもそれこそマスターできないのである。

 

 

(30)脳の拍動
旭川日赤病院の上山医師(脳外科)は、「脳は拍動しているので、固定したメス捌きでは脳を傷つけてしまう。その拍動に合わせて術者自らの身体をゆらしメスもまたそのリズムに合わせて手術を行う」とNHKの番組で述べていた。。

 

脳が拍動するというのは自然療法家の間では常識であるし、その拍動の結果、頭蓋での動きは最大で250ミクロン程になる。手技でも検出できるところだ。しかし、これは頭蓋に伝わってくる動きであって、実際の脳の拍動はどのくらいになるのか実に興味深い。私は脳外科医ではないので見たことがないが、脳外科の名医が言うのだから、拍動があること自体は間違いないと思う。また、ある脳外科出身のオステオパスも、手術のため頭蓋骨を開いたときに見える脳膜の見事で、かつリズミックな動きに魅了され、手技頭蓋療法の道へ進んだ、という話を聞いたこともある。


それにしてもプロというのは凄いものだ。脳の拍動にメスの当て方を合わせるとは・・感動してしまった。脳自体の自律的な拍動と共に呼吸による他律的な動きにも言及されていて、その二つの動きに合わせねばならないそうな。これは手技で検出するときにも感じる。そう、頭蓋には脳自身の自律的な動きと呼吸による他律的な動きがあるのである。このように頭蓋には混在した動きがあるので、これを感じ分けねばならないと常日頃思っていた。それが思いがけなく、脳外科の専門医の口から発せられて大いに意を強くした次第。

 

1930年代、頭蓋には固有の“動き”があると予見したサザーランド博士は当時計測する装置もない時代にどうしてこのようなことを予測し得たのか。全く人間の持つ直観力には敬服せざるをえない。もともと、頭蓋乳様突起が魚のエラに似ているところから、このような発想に至ったらしいのだが、それにしても・・と思う。先人の努力に敬意を払う所以である。


頭蓋の動き、専門的には「CRI」というのだが、そのCRIを検出するところから、頭蓋療法(クラニアル・マニピュレーション)は始る。多少の経験、訓練は必要だが、これは普通の者であれば、必ず感じることができる。それにはコツがあって、最初に計り、一連の手技の後、もう一度計るということが重要であろう。最初と術後の動き(手に感じるもの)は歴然と違うことに驚かされること度々であり、本当に頭蓋の固有運動は存在する、と確信する瞬間でもある。このようなことを何度となく行っていけば、経験値が重なり、触って程なく、頭蓋の動きがキチンとある人か、または減衰してしまっている人なのか、判断できるのである。減衰してしまっていても余程でなければ、一連の手技の後、その動きは復活してくる。復活しても極弱い動きしか感じられないか、またはほとんど変らない者も希にいる。この場合、相当に強い肉体的or精神的ショックが身体に残ってしまっていると推測できる。しかし、このような者は極端に少ない。これは統計的平均よりもかなり少ない割り合いではないかと思っている。思うに、私はクラニアル・マニピュレーション単独で行う施術は少なく、足の操作を充分に行ってからの施術法が影響しているのではないか。統計的データはないが、施術実感としてそう思っている。また、全息胚的な診断によれば、頭部、頸部を表わす部位(反射区、拇趾周り)に違和感を感じるクライアントはやはりCRIの検出が困難であるという経験値がある。したがって、両極端でありながら、頭と足には大いなる関連性があるのではないかと思う次第。胚が頭になる部分と足になる部分が分化する前はまさに繋がっていたわけだから、全息胚的には「お隣さん」若しくは「一体」と言ってもいいのだろう。また、“陰極まって陽となる”陽極まって陰となる”という中国哲学を敷衍した東洋医学の真髄を垣間見る思いでもある。


このようなことからも、充分に訓練されたリフレクソロジストはクラニアル・マニピュレーションを修得すべきではないかと思っている。というよりも必須ではないのか。


血流、リンパ液だけの流れを考えても、リフレクソロジーは末梢、末端の流れを良くし、各細胞の活性化を図ることが出来る。それに対して、クラニアル・マニピュレーションは脳脊髄液の循環を良くし、中枢神経系の疲弊を取り除く。脳脊髄液といっても、もとはリンパ液であり、リンパ液といっても、もとは血液である。脳脊髄液は、絶えず脊柱管を通してこうしたリンパ液との交換が行われていて、常に新鮮で滋養分豊富なものとなっている(はずである)

 

つまり、末梢、中枢両面での循環が円滑に行われていて初めて、よき循環が行われていると言える。もとより治癒原理はこれだけであるとは言わないが(再三HP上で述べているが)。少なくとも、末梢循環、中枢循環をいちどきに行う施術がより大きな効果をもたらすことは間違いあるまい。

 

ヘッドマッサージとの違い
同じ頭部を触るという施術法だが、ヘッドマッサージとクラニアル・マニピュレーションとでは、概念がまるで違う。ヘッドマッサージは頭皮、頭部筋(特に側頭筋)へアプローチし、それらをほぐし、血行を良くする。特に頭の筋肉は肩や首ほどコリ感は感じないにも関わらず、相当にコッている場合が多い。それを放置し、ある条件が重なると私のように、非歯原性歯痛(施術百話参照)などというわけの分からない病に罹ってしまう。まあ、そこまでいかなくとも、自覚しづらいところだけに、コリほぐしの盲点ともいえるだろう。
当然、頭皮の血行が良くなるわけだから、育毛効果も期待できるわけだ。


それに対してクラニアル・マニピュレーションは頭蓋縫合部分を通し、脳膜の緊張をとり、さらに脳自体の拍動を促進させる。結果、脳脊髄液の循環が円滑になり、中枢神経系の活性が行われる。


予めお断りして置きたいのだが、どちらが優れているかという問題ではなく、目的が違うということを理解して頂きたいと思う。

 

さて、面白いことに、頭蓋、脳膜、さらに脳自体へ影響を与えるクラニアル・マニピュレーションの技法は5グラムタッチという言葉に代表されるように、実にソフトなタッチで行う。圧力が5グラムであるという意味だ。実際、料理で使うような計りで5グラムを維持するような圧力を指でかけて頂ければ分かると思うが、これは非常にソフトなタッチである。実務上は圧力を維持しなければならないので、5グラムよりは大きい圧力にはなる。なるが、指圧やマッサージのような圧力でないことは間違いないのである。先人達の経験、不肖私の経験でもこのタッチ以外では脳への影響力がほとんどないと言える。つまり、脳の拍動を促進することはできないのである。


それに対して、頭皮や頭部筋群へのアプローチであるヘッドマッサージは5グラムタッチよりもはるかに強い圧力を使う。脳や脳膜よりも表面にある組織に対してのアプローチにも関わらずである。普通、深部へ到達させるにはより大きな圧力を必要とするわけだから、これとは逆にならなければならないはず。しかし、実際は述べたようになる。


生体は単なる物体ではなく、一種のエネルギー体であることから、このようなニュートン力学と相反する現象がおきてしまう。術者と被術者のエネルギーの共振点とでも言えばいいのだろうか。これはニューエイジ的過ぎる表現だろうか。

 

であれば、観点を変えて説明してみたい。足でも身体でもそうであるが、強い力にはそれだけ、反発力が働く、つまり圧が浸透する前に身体が防御してしまうのである。だから、身体を操作する術者はその反発がなされないように工夫して施術を行う。基本中の基本であろう。そう言った意味で特別にデリケートな頭部、その中にある脳膜、脳に対しては、はじめから最小限の圧力で行うほうが、一見遠回りのようでいて、もっとも効率の良い浸透力を得られる方法なのかも知れない(やはりそればかりではないような気がするが)。なんにせよ、ヘッドマッサージよりははるかに少ない圧力で脳に到達させる技法であり、方法論なのである。
少なくとも頭蓋→脳膜→脳への働きかけは5グラムタッチが最も優れた方法である。

 

頭のコリをほぐし、爽快感を得、ストレス解消を目的とするならヘッドマッサージを選択してもいいだろうし、ある種の治療目的、若しくは体質改善を目的とするならクラニアル・マニピュレーション適用となろう。個人的にはより本質的な改善に惹かれるので、所望されてもヘッドマッサージを行う気にはなれないのだが。まあ、ここら辺になると個人的な考え方の問題だ。(だから、優劣の問題ではないのである)

 

 

(31)全息胚診断
漢方を処方するにあたって、出鱈目に、いい加減に薬を決めるということはない。必ず、「証」というものがあって、それに対応する漢方薬を選ぶことは今や素人でも常識の範囲に入っているだろう。その「証」を決めるに際して漢方的な診断を行うことになる。問診で、日常的な習慣等を詳しく聞いたり、脈を診たり、舌を診たり、お腹を触ったりして、その人にあった漢方薬を決めていくわけだ。望診、聞診、問診、切診が基本となるわけだが、これらすべて医者の五感を頼りにするものだ。


鍼においても、古典を標榜する鍼灸師はこれまた六部定位法といわれる脈診を行い、それによって、取穴する位置を決めていく。
つまり、東洋医学といえども、医学である以上、診断が必ずあるということだ。それが、西洋医学とはまるで概念が違っていてもである。東洋医学なりの診断、つまり「証」というものが決らない限り、治療のしようがない。この辺は、西洋医学となんら変らないのである。

 

さて、手技法においても、当然、診断が必要である。診断なきものは全て民間療法なのであって、医療に値しないものである。なぜなら、フィードバックがないから、進歩しようがないからである。診断というものがあれば、その診断が間違っていたのか、また、間違ってはいないのだが、最早、手に負えない病勢なのか、これらのことが蓄積されて、進化、発展していくことになる。失敗例は失敗例として、貴重な経験値になるのである。手技は長らく、この診断というものを疎かにしてきた。コッているところを聞いて、その部分を重点に行うーこれはこれで診断といえば診断なのであるが、症状のみに対応するという意味では厳密には診断ではない。だから、マッサージ等は現在の医療制度の中で、治療補助の立場しか与えられていない。その部分に不足を感じ、手技独自の経絡「証」診断というものを体系化した故増永静人師の仕事は長く顕彰されるべき偉業と言えるものなのである。


さて、熟達したリフレクソロジストの最大の利点は何か?といえば、期せずして全息胚診断(反射区診断)が行えるということに尽きるだろう。施術操作そのものは慣れというものがあって、それなりに長くやれば、上手くなるだろう。しかし、反射区診断はその気がなければいつまでたっても身につかないものである。


さらにやり方がわからない。若しくは、誤解しているという状況ではなかろうか。
ここで誤解を解くために、このリフレクソロジー的診断方法について少し言及してみたい。


1、 全息胚診断(反射区診断)は身体の大雑把な問題点を捉えるものであって、どの臓器がどのような異常を起しているのかを見つけるものではない(また見つけられるものでもない)これは東洋医学における「証」診断にも似た概念であり、いわば体質診断なのである。


2、 1を受けて、片足のみの精査では分からない。なぜなら、足には個性というものがあって、反射区異常なのか、その人の足の個性なのか、基本的には理解できないからである。故に必ず、両足を同時に診て、左右差の中で考える。


3、 (特に内臓は)自覚症状がないのに機能低下という現象があるということを頭に入れておく。その中でも、腎臓や肝臓は特に自覚症状がない。


4、 場合によっては他覚症状さえない場合がある(検査的異常がない)。故に指摘するときは慎重に。


5、 足自体の歪みも考慮にいれる。O脚、足首の硬さ、傾き、足の長さ。これらは当然ながら身体自体の歪みの結果であるが、イコール反射区異常とも捉えられる。(だからこそ、両足で見なければならない)また、足を合わせるとき、内踝の突端で合わせる。内踝の突端以外で合わせても、反射区異常は検出できない。


6、 角質などは反射区異常の結果として起こっているものもあるが、合わない靴などで起こりえる。しかし、後者であっても逆反射を起し、やがて対応する器官に異常を起す場合もある。そのプロセスの途中かもしれないということを理解する。


7、 反射区ばかりではなく、古来よりの言い伝えも重要視する。例えば、内反小趾が甚だしい場合、子宮の位置異常があるとか・・踵、踵周りがカサカサし、角質がついている場合、脾の異常があるとか・・etc


8、 有痛箇所も重要な手ががりになるが、生理的に痛がる者、尿酸値が高いなどの理由があって、痛みを訴える場合があるので、有痛のみで判断しない。(また施術者の力加減に左右される要素が大きいため、客観性が保てない)

 

細かく言えばもっともっとあるが、大きな注意点とすれば以上のような事柄になるだろう。特に2は盲点であるから、このヒントだけでもピンとくるリフレクソロジストが多くいるのではないだろうか。


現状、大手サロンに勤めているリフレクソロジスト達はすべて時間管理された中で働かねばならない状況であろう。したがって、時間をかけて、全息胚診断を行うゆとりはないかもしれない。そこはなんとか工夫して、若しくはプライベートの時間の中で訓練されたら良いのではないかと思う。いずれにしても折角、リフレクソロジーという診断即治療を行い得る手技にめぐり合ったわけだから、単なる作業者に終わってしまうのはあまりにも勿体無いことである。次から次へリフレという作業を行っているうち、そのうち仕事自体が嫌になってしまうのではないか・・と老婆心ながら心配してしまう。

 

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